日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党再編・(準)与党の不振(①④)~非政友会、二重の不一致~

野党再編・(準)与党の不振(①④)~非政友会、二重の不一致~

1908年5月29日付の東京朝日新聞には、大同俱楽部の一領袖が、次のような事を語ったと記されている。過半数を上回った立憲政友会が横暴さを増すため、野党連合が必要だ。しかし大同倶楽部が鼎立(3党派が並び立つ)を旨としていることから、それに反する野党連合へ進めば、倶楽部内の実業家を失う事になる(これについて後述)。猶興会が大同倶楽部を嫌っていることからも、野党の永久的な連合は困難だが、特定の問題については今後も連携が可能である。立憲政友会の勝利は政府党であるためで、第1次西園寺内閣が総辞職すれば同党が分裂し、3派鼎立の必要性が高まる。以上だが、非政友会勢力が協力して立憲政友会を追い込むとしても、その後は自由党系(立憲政友会)、改進党系(憲政本党)、吏党系(大同倶楽部)による3極構造を維持したい(強化したい)、少なくともそれ以外に手がないという事だ。つまり、反政友会で立憲政友会の弱体化を目指しはしても、同党以外への政権交代を、山県-桂系と結んで実現させる事すら目指さず、自由党系も改進党系も力を付け過ぎないようにするという山県の意に従うという事だ。反政友会の大連合、あるいは反薩長閥連合を目指す者が混ざる連合を、長続きさせる意思はないという事を自ら認めているのだ。その前に記されている、野党連合に進むと派内の実業家を失うのはなぜか、次の3つの理由が考えられる。

①派内の実業派議員が、山県の意に忠実であろうとしていた

②派内の実業派議員が、2大政党の一方と一体化する事に否定的であった。

③派内の実業派議員が、反政友会の立場を必要以上に強めたくはないと考えていた。

大同倶楽部が山県-桂系の大浦兼武の意思に反して動く事は考えにくかったから①は考えにくい。山県が強く反対する行動を吏党系がとる事はあり得なかったのだ(山県が黙認する事は考えられなくはなかったが、それならばそもそも①の立場で実業派が大同倶楽部を離れる理由にはならなくなる)。②と③は、確かめる事こそできないが、大同倶楽部の実業派が、同派結成前までは中立派として行動していた事を考えれば、双方とも十分あり得ると思う。もちろん両立もする。

一方、6月5日付の東京朝日新聞には、猶興会の尾崎行雄が述べた事が記されているのだが、尾崎は野党連合に懐疑的な見方をし、独立した勢力であり続けることを主張している。また議員間の感情が大いに接近したとして、猶興会の政党化を主張している。しかし、6月20日付の同紙は、野党連合にあまり賛成していないと言われていた猶興会が、実際には野党連合に熱心であるとしている。同派に両方の立場の議員がいたことは、第2次桂内閣期の動きを見れば分かる。6月25日付の同紙にも、尾崎が述べたことが記されている。尾崎は、一定不動の主義、目的があり、それを遂行するための連合ではなく、単に現内閣(当時はまだギリギリ第1次西園寺政友会内閣)を倒すための連合では、破壊的な行動はできても、建設的な行動はできないとしている。そして現内閣を倒しても、藩閥残党による内閣ができるとした。これこそ大同倶楽部の狙いだと言う事もできる。それと尾崎ら同志研究会系が目指すものとは大きく異なっていたわけである。また尾崎は、憲政本党と猶興会が立憲主義を捨てて藩閥に下るか、大同倶楽部が藩閥擁護を棄てて立憲主義に下るかしなければならないとして、双方の主義の隔たりの大きさを強調した。優位政党を前に野党が全く異なる路線、考え方に2分される状況は、民主党下野後の現在と似ている(図⑩-D参照)。そして尾崎は、野党連合に加わっている実業家について、当てにならないとした。これまでの中立派、中立実業派と変わらないという事だろう。また尾崎は、現内閣が行政整理、文官任用令の改正(※)を断行して、少しでも立憲政治の基礎を固めることを望むとした(文官人用例の改正については尾崎が望んでいたのだと考えられるが、本章新民党(④)~政党化の是非③新民党(同志研究会系)~で述べたような話もある)。倒閣のためだけの(少なくともそのように見える)、同床異夢の野党共闘が問題とされるのは現在も同じであり、1党優位の状況であることが多い日本では、しばしば問題とされる事である。そう言ってしまえばそれまでなのだが、進歩がないのだ。進歩したかに見えて、元に戻ってしまうということを、繰り返しているとも言える。

※ 文官任用例は、第6回総選挙後に成立した第2次山県内閣が、奏任以上の文官を文官高等試験の合格者とし、親任官(国務大臣、公使、知事等)を除く勅任官について、奏任官からの昇進を原則とするなどして、政党員が官僚となることを難しくしたもの。

 

尾崎の考えには、非常に重要な事が隠されている。筆者が新民党に分類する猶興会(同志研究会系)の中に、破壊しかできないような非政友会大連合の限界を認めるという事は、その大連合なしに立憲政友会とは渡り合えないのだから、それもあきらめるという事になる。これは後の、尾崎らの立憲政友会復党の理由にあったのかも知れない。1909年7月3日付の読売新聞は、尾崎の去就を不明だとしながら、尾崎が立憲政友会の外にいて、常に同党を大きくするために行動してきたとする。そして、2党制対立は、非立憲主義者が消滅した後の理想として、それまでは一院一党の大勢力を形づくり、非立憲主義者屈服の目的に進むべきだと、尾崎が述べたとする。1党優位で政党間の政権交代がなくても、政党でない薩長閥の優位が永続するよりはましであり、薩長閥と立憲政友会の間の、半ば癒着的な政権交代が続くよりも、まずは政友会内閣が、薩長閥からより独立したものとして成立したり、超長期的に続いて強くなる方がましであるという理屈は成り立つ。あるいは反対に、同志研究会系が反薩長閥であり続ける事をあきらめ、薩長閥(の山県-桂系)の内閣に、民主化を求めるというのも、考えられなくはない。他の勢力と共に薩長閥やその内閣を追い詰めても、それで政権を担わせてもらえるというわけでもないし、切り崩される危険もある。仮に政権を担う機会を得たとしても、衆議院だけが基盤である限り、そして軍部大臣現役武官制である限り、薩長閥への配慮が必要になるし、団結し続ける見込みもない。新民党からは実際に、桂(第3次桂内閣)が非立憲的だと批判を浴びる中、その桂の新党に参加する者が出て来る。なお、尾崎は以前、改進党系でありながら立憲政友会の結成に加わったが、その背景にも、ここで想像しているような尾崎の考えが、すでにあったのかも知れない。

話を少し戻すが、大同倶楽部の中心であった旧帝国党系等と、猶興会の土台になっていた旧同志研究会系等は、薩長閥に対する評価について、到底一致し得なかった。さらに両派それぞれの内部にすら、相容れない面があった。大同倶楽部にも猶興会にも、この2派が綱領、拘束力のある政党ではなく、2大政党と分立するものであったから参加した議員たちがいた。彼らにとっては、第2党を含む事で、より党派的なものになりやすい野党3派(憲政本党、大同倶楽部、猶興会)の連合は、身を投じ難いものであったのだ。

6月7日付の東京朝日新聞は社説において、大同倶楽部だけが国家本意で、2大政党が自党本意であるとする大同倶楽部の議員達の主張が、国民の共感を得ていないことを指摘している。そして主義政綱が無い同派について、自ら山県本意、桂本意だとした方が分かりやすいと批判している(薩長閥の姿勢とも矛盾しないのだから、戦後整理を主義にすべきだという内容が続く)。だが、この大同倶楽部の「国家本意」の主張には、興味深い点が含まれている。同派は第24回帝国議会の報告書において、自らが、無主義、無定見の「所謂中立黨」とは根本的に違うということを強調している。大同倶楽部、その後継の中央倶楽部の結成には、かつての吏党のうち、薩長閥寄りの立場を維持した本流(本稿ではこちらを、かつて吏党と呼ばれたものの本流だと捉え、「吏党系」と呼んでいる)と、実業派等の中立派との再統一という面がある(実際の顔ぶれが全く異なってはいても)。その再統一について吏党系は、国家本意の第3極が、無主義の第3極を吸収するというイメージを持っていたようだ。そこになぜ注目するのか。それは「国家本意」が、明らかに実業家の議員達とは相容れない価値観であったと考えられる事である。もちろん、国家本位の上からの産業振興というものはある(あった)し、全員が相容れなかったとまでは言わないが、国家本意と資本主義経済には、両立し得ない部分がある。これは(潜在的に)、吏党系と中立実業派の、完全な再統一を阻む要因であり続けていたと考えられる。また、吏党系が自らを無主義の勢力と別物であると捉えるなら、それは2大政党等とは異なるものの、理念を持った政治勢力である事を自負する事になる。選挙も含めて、異なる理念を持つ政治勢力同士が競う事を、事実上受け入れているに近い。それだけで直ちに政党間の政権交代のある政治を認める事にはならないが、その方向に向く、下地にはなる。吏党系(大同倶楽部の後継の中央倶楽部)は実際に、山県が否定的であった、桂による新たな第2党、立憲同志会に参加する事になる。それは改進党系の半数以上、そして同志研究会系の一部との、合流でもあった。

Translate »