日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党(④)~政党化の是非③新民党(同志研究会系)~

新民党(④)~政党化の是非③新民党(同志研究会系)~

まず、改めて確認しておくと、筆者が新民党に分類する勢力は、かつての民党の本流ではない(離党者である事が多いが)、民党の志向を継いでいる勢力である。具体的に言えば、薩長閥と組もうとするなど変化を見せていた民党の本流(自由党系と改進党系の本体)以上に、民党の主張を持っている党派だ。その民党の主張とは、有権者が選んだ政党(選挙で選ばれるのは個々の候補者だが)の、政治への参加、政権の獲得、その定着である(時期、勢力によって異なるが、結局は議院内閣制の実現だと言える)。それが、非民主的な(当時の言い方では非立憲的な)薩長閥にすり寄るもの、切り崩されるようなものであってはならないというものである。そのスピードの問題は別としても、参政権を拡大していく事であったと言える。そしてそれを他のアジア諸国でも実現し、民主化に向かって日本と相互に良い影響を与え合うという事だ。欧米の言いなりになるべきではない、民主化について先行している日本が他のアジア諸国を指導すべきだというような考えから、民党は本来対外強硬的な勢力であり、新民党もそれを継いでいると(基本的には継いでいる勢力を指すと)、筆者は捉えている。又新会を結成した同志研究会系に特徴的なのは、主体的な存在になるための国民の教化を、より重視している事だと言える(註)。本題に入る。

猶興会にも政党化を唱える議員達がいた。1908年7月4日付の東京朝日新聞は、猶興会の一人が言ったこととして、一定の主義綱領を掲げ、政府に文官任用令改正を断行させることで、政府と前内閣系(当時はまだギリギリ第1次西園寺内閣期だが、どうであれ山県-桂系と立憲政友会)との間の溝を広げ、藩閥系の根絶に努めるべきだという議論が有力だとした。それはつまり、再び政党員が多くの官職に付けるようにする事で、あるいはそうする事を争点にして、自由党系(立憲政友会。執行部がどんな姿勢を採っても、多くの議員が感触を得たくなって騒ぎ出す)を反薩長閥に引き戻して、立憲政友会と憲政本党、猶興会によるいわゆる民党連合で、衆議院での拒否権等を武器に薩長閥を追い詰めるという路線だ。それによって政権を奪い取ろうとするものだと考えられる。憲政党を結成して薩長閥に政権を譲られた時の、再現を目指すものでもあると言える。そして記事は、島田については未定だが、河野広中、尾崎行雄、花井卓蔵、阪本(坂本金弥の事だろう)、山口熊野、小川平吉ら有力者が同じ考えであるとする(政党に所属する事に終始否定的であった花井を除き、皆もともとは政党政治家である。花井については、猶興会を政党化して、あるいは他党と合流して政権を担う事を目指すのではなく、政党内閣を実現させ、それに好意的中立の姿勢で臨むという事があり得た)。

6月5日付の東京朝日新聞によれば、尾崎は野党連合に懐疑的で、猶興会の政党化を主張していた(次の野党再編(①④)~非政友会、二重の不一致~参照)。また7日付の同紙(東京朝日新聞)は、猶興革新連合協議会(猶興会や政界革新同志会)において、蔵原惟郭が政党化を主張したが、まだ時期ではないという声が多く、保留となったと報じている。また、島田三郎と浅野陽吉が、非募債、非増税、いわゆる「有る丈け勘定」の方針を固め、政府がこれと同様である場合は援助し、この方針と異なる場合には反対する事を提案し、容れられた事も報じている。「有る丈け勘定」とは、募債、増税なしで(彼らの求める税負担軽減を含む税制改革もして)、可能な範囲でやり繰りするという事だ。当時は社会保障など皆無であったから、それは【平等重視に対する競争重視の新自由主義】というのとは明確に異なる。むしろ税を多く取って、軍拡も含め国家のために使う国家主義的な路線、または利益誘導的な路線に対抗する、自由主義だと言える。なお、清とロシアに対する勝利から、日本が新たな領土、権益を得て、予算の規模も大きく拡大していく傾向にあった当時は、増税回避の主張だけでも低負担志向とし得る。だから軍拡の薩長閥(一概には言えないがそのような面は大きかった)、利益誘導の立憲政友会(自由党系)という積極財政志向の勢力(必要な時期に消極財政路線を採りはしても)と対抗する、消極財政志向の自由主義政党は当時、必要であったのだと言える。このことから、そのような傾向も持っていた改進党系の憲政本党と、新民党の同志研究会系(当時は猶興会)が合流する事は合理的であった(憲政本党と合流する事であいまいにもなり得るが、同党の既成政党としてのあいまいさの克服を助ける事にもなり得る)。その合流への一過程として、合流時の影響力を強めるために、一時的に議席が減っても、あるいは無所属議員の加盟が滞っても、政党を結成することには一定のメリットもあったと考えられる。規模の力を取るか、明確性・結束力・組織力の力を取るかという難しい選択を、第3極とも捉えられる諸勢力(吏党系、新民党、実業派)が等しく迫られていたのである。

さらに、当時の議会最左派であった同志研究会系の場合は、低負担で助かる層だけでなく、平等を志向する、比較的厳しい環境にある人々(当時は選挙権を持っていなかった)の政党にもなるのか(社民化。社会民主主義的な勢力との連携、合流も当然ながら課題となる)、いずれ決断を迫られる存在であったとも言える。実際には同志研究会系はその前に、何度かの政変によって消滅する。これについてはまた改めて考えたいが、ここで確認しておきたい事もある。当時すでに、3税廃止も地租軽減も求めるのはやや非現実的ではあり(地租軽減については本章⑨の段階で論点となる)、さらに財源が必要な社会政策(そうでないものは別としても)を求める事は、特に当時の日本の段階では難しかった。加えて、同志研究会系は本来の民党の性格を持っており、対外強硬派であった。反戦的な面が大きい社会(民主)主義者とは隔たりがあった。また、同志研究会系に労組運動や社会民主主義者と接点のある人物はいても(例えば島田三郎-武藤秀太郎『島田三郎』前者157、後者189頁-)、会派として、全体的に普通選挙を志向していたとまでは言い難い。自由主義にも新自由主義的なものから、貧困からの自由も求める、いわゆるリベラルなものまであるわけだが、やはり当時の日本ではまだ、社会民主主義とは隔たりがあった。社会民主主義がまだ、社会主義と完全に分化していたわけでもなかった。

話を戻す。他党派との合流に関しては、1908年6月21日付の東京朝日新聞が、他の勢力との合流のために解散するべきだという議論が猶興会にあると報じている。記事はその「本家」を、島田三郎だとしている。しかし、他の党派が解散しない以上それは難しいと見ており、島田も口を閉ざしているとしているというのだ。猶興会の政党化をすっ飛ばして、第2党等との合流に進むという考えもあったわけである。ただし相手の解党、解散を求めるということなら、他の党派に吸収される考えは島田にはなかったのだろう。同派ではまた、河野広中も合流に積極的な議員達の中心人物であったといえる(『河野磐州傳』下巻725-726頁。後継の又新会時代についての記述。河野と島田が中心人物であったことについては、第2次桂内閣期の動きから分かる)。河野や島田の考えは、特定の勢力を排除しない、非政友会勢力の大合同であった(本章新民党野党再編(⑩)~又新会の分裂、無名会の結成、小合同へ~参照)。

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