日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振・実業派の動き(④)~政党化の是非②吏党系~

(準)与党の不振・実業派の動き(④)~政党化の是非②吏党系~

1908年5月23日付の東京朝日新聞は、大同倶楽部において実業家出身の議員が政党化を望んでいないことを踏まえた上で、同派が議席を減らしたのは政党組織でないためだとしている。大成会時代の地盤は全国に散在するものの、大同倶楽部が政党でないために、やむを得ず他の政党に加わる者が多いというのだ。そのような人々は大同倶楽部が政党化されれば戻るとする。また、実業家にも政党組織の必要性を感じた者が多いとする。帝国党の時のように、別に議員倶楽部(会派)を組織するべきだとする者が多いとも書かれている(国民協会が結成された時にはそのような事があったが、帝国党については結成前こそ様々な議論、動きがあったものの―第6章補足~吏党刷新、帝国党への道~参照―、不参加者が別に会派を形成したという事はなかった。帝国党と無関係の中立会派が存在した事はあったが)。

自由党系と改進党系は、各地に勢力を広げ、根を下ろそうとしていたから、衆議院、地方議会の選挙で、無所属で当選した、あるいは当選し得る者が、勧誘を受ける事は当然あっただろうし、無所属でいても埋没すると感じる者もあっただろう。薩長閥側の議員でいたところで、薩長閥はその組織化に熱心ではなかった。しかし、それは薩長閥がなお、政党という存在に警戒心、拒否感を持っていたためである。このことからも、政党ではないからこそ、大同倶楽部に加わった議員もいたのではないだろうか。無所属の実業家の比較的多くも、すでに帝国党等と合流していた実業家と同じく、政党化に積極的ではなかったように思われる。だから戊申俱楽部も会派にとどまったのだと考えられる(会派を結成した上で、その一部が新党を結成するという動きも、ほとんど見られなかった)。もちろん政党化に反対の議員の中には、十分な力があれば本当は政党を結成したいが、小党になるなら反対だという者もいただろう。しかし吏党系と無所属の実業派が合流して政党を結成する場合、実業派の思う通りの新党にはならないだろう(※)。であればそれは会派とあまり変わらない。政党化のリスクを背負う必要もない。

大同倶楽部の政党化に話を戻すと、1908年5月26日付の東京朝日新聞は、現役の軍人である桂太郎が大同俱楽部の党首になるのが難しいこと、「黒幕連」も、政局に関わることが良しとされない貴族院議員であること、新たに標榜する特殊な主義がなく、第24回帝国議会の報告書も曖昧な言葉を使わざるを得なかったことを挙げ、大同倶楽部はまとまって政党化することが難しいという事を指摘している。それでも同時に、総選挙の結果からも、政党化しなければ現状維持が困難であるとしている。そして、憲政本党のような合議体のものであれば、できない事はないとしている(憲政本党はしかし、大隈重信が去った後、内部対立がより深刻となった)。また、第1次西園寺内閣が風前の灯火であり、動揺することになるであろう立憲政友会からの離党者を吸収するには、政党化が不得策であることから、大同倶楽部の組織変更について、第1次西園寺内閣の瓦解し立憲政友会の内部対立が起こった後だと予想している。

※大同倶楽部と戊申倶楽部が連携し得たとは言っても、戊申倶楽部は(主に)実業家、都市部の税負担の軽減を求める立場であったのに対して、大同俱楽部は市部選出議員の割合がかなり高かったとは言え、税収を減らすような事に否定的な山県-桂系には逆らえないのだから、この組み合わせは非合理的だ(中央倶楽部の結成でやっと一緒になるかと思いきや、戊申俱楽部からは無所属となる議員だけでなく、立憲国民党に参加する議員も出て来て、実際に合流したのは半数程度にとどまる。

Translate »