日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(②⑥)~2つの優位勢力~

1列の関係(②⑥)~2つの優位勢力~

山県-桂系は非立憲的であった(たとえ議院内閣制そのものに反対ではなく、あくまでも時期尚早だとする立場であっても、その時点では。そして善し悪しは別として)。しかし党利党略の面も大きい、利益誘導のための積極財政に否定的であった点に限れば、議会政治、政党政治のあるべき姿に近いとも言える。立憲政友会(自由党系)は、政党という存在であるだけで、山県-桂系よりも進んでいる面があった。しかしそのような存在であったからこそ、あるいは存在であるために、薩長閥が支配するする国政における唯一の足掛かりであった衆議院では、強者である必要があった。そしてそのためには、利益誘導で自らの基盤を固める必要があった(政党だけでなく有権者も経験が非常に浅かった事を忘れてはいけない)。

欧米では、保守(基本的には国王寄り、守旧的な貴族。位置関係を重視して当時の日本に当てはめるなら、出自は異なるものの、薩長閥という事になる)に対して、実業家層(ブルジョワ)が、自由や、税負担の不公平さを訴えて躍進した。それと、地主層、農村部を支持基盤とした立憲政友会のケースとは少し異なる(※)。これは少し不幸な事でもあったと思う。政党とはしょせん一部の代表に過ぎず、そうである以上、その一部の利益が他の一部~多く、あるいは国家全体としては不利益になる事もある。これについて欧米では、異なる政党が競い合う中で、バランスを取ってきた。政権を担う政党が国民全体に責任を負うという考えが浸透していった(偏った事をやり過ぎると、支持基盤以外の票を全く得られなくなるし、支持基盤の中でも、良識的な人々が離れる事がある。前提として、支持基盤だけでは政権を取れないくらい、国内が多様化していなければならないという事もある。その点明治期の日本は、有権者の大部分が似通った地主層である常態ではなくなっていく過程にあった)。しかし日本では、自由派の優位政党(自由党系)と保守派(薩長閥)が取引をして政権を譲り合い、両者の「縦の再編」である政界縦断も大々的に行われ、欧米で土台となった【政党が競う事】がおざなりにされた。保守派は自らの政党を結成し、自由派と選挙で争う事をしなかった(吏党系はあったが、薩長閥の公認ではなかった)。しかし欧米では、保守派の政党が結成され、これが自由派の政党と正面から競う中で、議院内閣制が定着した。欧米とひとくくりにするのは乱暴だし、欧米より日本の方が良い面は多くある。しかし政党間の対等な競争、複数の選択肢から政権を任せる政党(あるいは大統領候補)を選ぶという点では、日本は現在でも確かに遅れているし、これは政党や有権者としての国民の成長を、阻んでいると考えられる。

なお、山県の上奏が直ちに政友会内閣を追い詰めたわけではない。西園寺総理に辞めるきっかけを与えたに過ぎないという面もある。この点を重視すれば、仲間内で、「次は俺たちだよ、そろそろ代われ」という事をやっていたに過ぎないと捉えることができる。実際にその後、西園寺・立憲政友会は政権を得ている。それが談合の桂園体制だという事も言えるのだ。

※ 国によってはエリート等の保守派が都市部、それに対抗する自由派が農村部を地盤とする傾向もあったようだが、それとも日本は異なる。産業の発展段階の差異も影響しているが、日本では吏党系も農村部を地盤としていた。帝国議会最初期の、中立派を多く含んでいた吏党系としてみれば、そのような国との違いが小さくなるように見えるかも知れない。しかしその議会最初期の吏党系は、【保守派】とするより【2大民党以外の議員達】としたほうが良いような勢力であった。保守派の色を明確にした時には、農村部を基盤とする政党になっていた。

 

薩長閥の要人達が政党の存在を認め、あるいは警戒するからこそ政党との距離を縮める中(伊藤博文系に至っては自由党系と合流して立憲政友会を結成)、これと一線を画していたのが山県有朋であった(子分の桂が立憲政友会と交互に政権を担当し、ついには政党の結成に乗り出し事にも批判的であった。唯一の例外が第2次山県内閣期だが、この時は第6章で見た通り、自由党系と協力しつつ、政党の行政府への進出を抑える策を採る中で、結局は自由党系と決裂している)。この元老山県が、社会主義者に甘いという批判で西園寺政友会内閣を追い詰めた事は、利益誘導政治と、本来それを批判する立場でもある社会主義者を、一気に攻撃するようなものであった。ここに、【保守派 → 保守派に対抗する自由派 → 新たな挑戦者である社民派】という流れにおける、自由派(立憲政友会)と社民派の進歩性が浮かび上がる(当時は社会主義派と社会民主主義派の区別はまだそこまで明確ではなかった。『原敬日記』などを見ると、桂は少なくとも表面上は、左翼的な無政府主義者を警戒している)。しかし薩長閥がその境界を曖昧にする形で弱体化し、立憲政友会(自由党系)がこれに過剰に配慮する必要がなくなっていく中で、立憲政友会は保守派の性格を強める。具体的には、優位政党の地位を守ることを最重要視し、政権交代のある議院内閣制を望むわけではなく、普通選挙にも否定的であったという点で、保守的であったと言える。以前から保守派と取引きをする事に積極的ではあったし、まずは自党の政権が定着する事しか考えていなかったように見える。しかし政党システムの中で、明確に保守派の立ち位置になるのだ。立憲政友会より自由主義、議会重視の傾向が強い政党が、立憲政友会のライバルになった事も背景にはあるが、それも立憲政友会が保守派の性格を強める事と相関関係にあった。

この立憲政友会のライバルとなるのは、改進党系である。改進党系は最初から自由党系のライバルであったとも捉えられるのだが、弱すぎて、厳密にはライバルとはし難い存在であった。その改進党系は、立憲政友会の力が強まり、政友会内閣(つまり政党内閣)が普通になったからこそ、いずれ政権を担うようになるであろう、もう一方の大政党としての地位を固めることができた。保守派がまともに政党をつくろうとせず、社民派の議会進出も難しかったため、日本では自由党系と改進党系という2つの自由派が、第1、2党の地位を占めていた。そして「もう一方の自由派」である改進党系も、真っ二つに分裂し、その一方が薩長閥の桂太郎の新党構想に参加する事で、政権参加を排除まではされない政党となり、次に、真っ二つに分裂した立憲政友会の一方と合流する事で、立憲政友会と対等な政党になるのである。ここには合理的な対立軸も存在したが、それがうまく生かされる事はなかったし、社民系の台頭もうまくいかない中で、2大政党は社会党に対抗して合流し、自民党という怪物的な、ぬえのような優位政党になってしまうのだ。

第10回総選挙後に話を戻すが、立憲政友会が容易に第2党に転落するような政党ではなかったと考える時、「一視同仁」は、桂総理が他の党派とも組み得る(当然その勢力が桂内閣期の総選挙で議席を大きく増やす可能性はあった)ことを示し、立憲政友会を牽制することが、主要な狙いであったという事も当然考えられる。ここには、薩長閥(山県-桂系)と立憲政友会がすでに、同じく政権の中心を担い得る立場である、つまり他の勢力と比べて守旧派の色の強い勢力である事が現われている。

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