日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党の2択(③⑤)~憲政本党の2分化を決定的にした「政権交代」~

野党の2択(③⑤)~憲政本党の2分化を決定的にした「政権交代」~

政友会内閣の総辞職と薩長閥の桂内閣の成立は、憲政本党の内部分化を進める出来事であった。改革派にとっては、下野した立憲政友会に対抗して薩長閥に接近するチャンスであったし、非改革派にとっては、内部で薩長閥への不満が高まる立憲政友会と、反薩長の連合を組むチャンスであったからだ。しかし立憲政友会は執行部のコントロールもあり、あまり第2次桂内閣に敵対的にはならず、双方の思惑が外れる形となった。西園寺政友会内閣期は第1次、第2次とも、憲政本党が立憲政友会に切られたことが明確であった。憲政本党は立憲政友会との民党連合、あるいは伊藤博文(立憲政友会の元総裁でもある)を担ぐ形で、共に与党になる事を目指したものの(後者は第1次桂内閣期に限る)、立憲政友会は先に単独で桂総理に近付き、政権を譲ってもらい、そこに憲政本党を入れなかったのである。さかのぼるが、第2次山県内閣で自由党系の憲政党が準与党になった事、自由党系と伊藤系が合流し、衆議院の過半数を上回る政党として立憲政友会が結成され、短期に終わったとは言っても政権を担った事で、結成時は衆議院第1党であった憲政本党は、非常に不利な立場になっていた。そのため、筆者が野党の2択と呼ぶ、2つの路線のどちらを採るかについて、党に強い遠心力が働いた(2つの路線とは、薩長閥、与党への接近と一体的な現実的な路線と、徹底抗戦という野党的な路線。図⑩-L参照)。立憲改進党が他の党派と合流してできた政党が憲政本党だと言えるから、もともと遠心力が働きやすいという事もあった(薩長閥が政権の中心を担っている時の自由党系―立憲政友会―を含め、日本の野党としては珍しい事ではないが)。ただし、西園寺政友会内閣期には、非改革派(民党連合を捨てられない。野党的な性格が強い)と、改革派(立憲政友会と対等になるために、同党のように薩長閥への接近を目指す)の差異は、むしろ明確にはなりにくかった。政権を担う立憲政友会に憲政本党と組む意思がなかったからだ。同時に、両派とも別の思惑(非改革派の民党連合構想、改革派の現実的な姿勢を示す意図)から、内閣に協力的になり得る面も持っていた。さらには薩長閥(山県-桂系)も2大政党が組む事を警戒していた。それが薩長閥の、山県-桂系の内閣になった事で、その第2次桂内閣に反感を持ち、野党になった立憲政友会なら組んでくれるかも知れないという期待がどうしても膨らむ非改革派と、衆議院に少数の基盤しかない第2次桂内閣に寄ろうとする改革派の違いが、決定的になったのである。感情的な溝があろうがなかろうが、ベクトルが逆になるのだから、まとまれるはずがない。

確認しておくと、立憲政友会が過半数に届いたからと言って、優位性を守れるとは限らなかった。非政友会勢力が100議席を超えるまとまりとなれば、桂総理にとっても、非常に有用であった。まずは彼らを与党にして(本当は準与党に留めておきたいだろうし、それでもなんとかなったかも知れない)、衆議院の解散総選挙を行えば、立憲政友会への批判もあった時期だし、全ての政党(の影響力)を排除するような超然主義でもないから、桂内閣を支持する勢力、議員が、合計で過半数を上回る議席を得る可能性は、十分にあったと言える。

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