日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振(③)~2大政党制へと続く、近くて遠い、山県桂-系と自由党系の関係~

(準)与党の不振(③)~2大政党制へと続く、近くて遠い、山県桂-系と自由党系の関係~

第2次桂内閣の不偏不党については、政綱に「苟も國家の公を忘れて私に黨し、亂に勢力を借て壓迫を加ふるに至ては、縦令機回解散を行ふも、敢て辭せざる所なり」とある(徳富猪一郎編『公爵桂太郎傳』坤巻343頁)。野党に懲罰的な衆議院解散で対抗する、かつての薩長閥政府の姿勢を採ることを宣言しつつ、その対象として横暴な多数党、つまり立憲政友会を想定しているような表現をしている。これは国民の代表である衆議院に対する高圧的な、非立憲的な態度であると同時に、優位政党の横暴を許さないという、立憲的な態度でもある。ただし桂総理は薩長閥という、優位政党を超える権力を持っていたと言える勢力の一員であり、総理大臣という地位にあったため、基本は前者であり、そこに後者の面に共感する勢力の支持を求めるという事に過ぎない(当時の政党をどう評価するのかは、これとはまた別の話である)。

山県-桂系と立憲政友会(自由党系)の関係を少し整理したい。政党に否定的な山県-桂系と、政権獲得を目指す自由党系が交互に政権を担った時代は、第2次山県内閣から続いていた(図⑩-B参照)。その背景には、自由党系に衆議院第1党としての力があった事(ただし第2次山県内閣成立時は、自由党系と改進党系が合流してできた憲政党を解散し、ほぼ自由党系だけで新たに憲政党を結成したという経緯から、自由党系の憲政党は、改進党系等の憲政本党に次ぐ、第2党であった)、そして自由党系が薩長閥に、政策の面でも近づいた事がある。当初自由党系が接近したのは伊藤博文系だが、有利であれば山県系にも接近する姿勢をとった。山県-桂系は軍拡を中心とした国力強化のため、そして立憲政友会は選挙区等への利益誘導のために、積極財政志向が強かった。自由党系は、他の野党と共に消極財政路線・地租軽減を求める立場から、積極財政の枠内で、薩長閥と使い道を調整する関係になったのである。これは、無産政党(社会党系や共産党)以外の勢力が全て合流し(鈴木善幸のように、自民党には社会党の出身者すらいた)、政官の癒着体制を築いた自民党政治の原型だと見ることができる(桂園体制と自民党の類似性に関しては、この時代の政官の癒着の延長に自民党を見る坂野潤治氏の見解が有名だ)。あるいは挙国一致内閣に近い面もあるかも知れない(昭和期に入り、薩長閥が、その有力者の高齢化で輪郭を薄めていた中、政党内閣もうまくいかなかった時代に、戦時下である事からも代替物として浮上したのが、挙国一致内閣だと言える。大日本帝国憲法は天皇大権を別とすれば分権的であり、それを衆議院以外の各機関を抑えていた薩長閥の要人達がまとめていた。そして拒否権を持つ衆議院については、自由党系との協力等によって対立を可能な限り避けた。それによって衆議院を押さえる政党による内閣も定着していくわけである)。しかし当時、経済状況が悪くなると、山県-桂系も立憲政友会も、特に政権を担っている方は、消極財政を採らざるを得なくなった。同時に少ない歳出における使い道の優先順位が問題になる(山県-桂系等の軍拡等の国力強化か、立憲政友会の利益誘導的インフラ整備か)。この時、政権を担っていない方は、それに敵対する姿勢をとる事を可能な限り避けて(第1次桂内閣の成立を除き、第2次山県内閣から第3次桂内閣まではそもそも、両者のうち、政権を降りる方が相手方を後継に推薦しており、いきなり敵対するのは本来不自然であった)、やがて、そろそろ政権を取り戻したいという時に駄々をこねるなどして、相手を追い詰める事が慣例のようになっていた(※)

※ 両陣営には別々に、それを支持する基盤があり、それを利用して、少なくとも拒否権を行使することが出来た。自由党系のとってはそれは国民、とは言ってもまだ少数の、制限選挙の有権者であった。山県-桂系より直接的な力は弱かったが、何度選挙をやっても、自由党系を弱める事が難しい状況下、自由党系は衆議院で拒否権を行使することができた。単独で過半数を持っていなくても、非政友会勢力の中に同調者を見出す事は難しくはなかった。

 

自由党系に郡部偏重の面があるのは確かだとしても(その弱点の克服も星亨などによって目指されてきた。伊藤系との合流は有効であったが、伊藤が離れた後、山県-桂系に市部を切り崩された事もあり、先祖返りしたような面があった)、また、山県-桂系が当時、消極財政で市部、実業派の議員と親和性を高めていたとは言っても、山県-桂系を都市型とはし難い。税負担を実際に軽減しない限り、国力強化路線で利益を得るのは、一部の大企業・政商にとどまる(※)。

※ 消極財政においてはそれらも我慢を強いられる事はあるが、大企業、金融資本は国家の財政健全化―例えば公債の下落回避―の恩恵をより直接的に受ける存在でもある)。本来は改進党系が都市型になり得る政党であったが、勢力を維持、拡大させるためには都市型ではいられなかったのだと言える)。

 

消極財政は、インフラ等について(比較的)恵まれた市部で支持されやすい。市部には過密の問題が生じ得るが、当時の日本には(まだ)そのような傾向はなかった(貧困の問題はあっても)。であれば、市部の有権者が喜ぶのは税負担の軽減である。彼らはまだ少数派の、不利な立場にあった。しかし山県-桂系は、上から国力を強化するという点で本来は積極財政志向であり、低負担志向ではなかった。議院内閣制の実現に消極的であったことから、市部の先進的な層などの支持も得にくかったと言える(これが解決されるための再編が必要であり、ある程度進むのだ)。それでも、立憲政友会が積極財政・郡部型であり、桂総理がそれとは異なる路線を採っていたという点では、桂系と自由党系という2大勢力による、2大政党制と親和性のある構図に、この当時少しずつ変化してきていたと言うことはできる。疑似2大政党化が進んだのだと言っても良く、つまり立憲同志会結成、2大政党制への土台が形成されていたのだ。薩長閥と自由党系の関係は分かりやすいものではないし、談合政治のような面も確かにあるのだが、議会を導入したばかりの経験浅き日本における、政党内閣の定着、合理的な政党制の成立の一過程としては、否定的に捉えるべきものでもない。今の日本の政党政治に影を落としているのは、その先の展開、そして社民系の育ち方にあると思われる。

最後に補足すると、吏党系の議席も郡部中心であったが、中立実業派の会派と合流して大同倶楽部になった事で、市部のウエイトがやや高めの勢力となった。それが第10回総選挙において、郡部の方でより大きく後退し(郡部が大選挙区、市部の多くが小選挙区であったにもかかわらず)他の党派に比べて、また衆議院全体での割合と比べて、市部選出の議員の割合が非常に高い会派となっていた。

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