日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党再編・新民党・実業派の動き・野党の2択(④)~相容れない又新会と戊申倶楽部①~

野党再編・新民党・実業派の動き・野党の2択(④)~相容れない又新会と戊申倶楽部①~

第2次桂内閣の出現は、非政友会勢力の合流どころか、連携すら難しくした。立憲政友会中心の内閣であれば、非政友会勢力が大きくまとまることは比較的容易であった。だが薩長閥の勢力による内閣となると、吏党系の大同倶楽部は内閣支持、新民党の猶興会→又新会は不支持と、明確に立場が分かれるからだ。桂内閣期(山県-桂系中心の内閣が存在する期間)には、非政友会勢力がまとまる事は難しい(ただし衆議院とその選挙を見れば立憲政友会1強なので、それに対する不満-特に立憲政友会が他の党派を軽視すれば-から、まとまる事は常にあり得た)。当時、戊申倶楽部と又新会は実際に対立関係となった。それは議員の取り合いという、分立することに付随する問題にもよる。1908年12月14日付の読売新聞によれば、新団体(又新会となるもの)が発会式の通牒を51人に発っしたことについて、自らの所属代議士10余人を誘拐しようとするものだとして、戊申倶楽部が注意書を発した。これに対して新団体の準備委員の一人が、新団体が重きを量ではなく質に置いており、明確に加入した者か縁故ある者にしか通牒を発送していないと反論した。結局、戊申倶楽部の「某領袖」が新団体、つまり又新会となる勢力について、次のように述べる(10月5日付読売新聞)。

新團體は主義政見の同一なるもののみを集め結合力を鞏固にし誠實議員の職責を全うすべし抔と吹聽するも所詮は猶興會の變体に過ぎずして徒に政論を吐くに止まり何等主義政見の實行なけん而して其集合したる顔触れより考へ余輩は斯かる人々が一團として一所に集まるを喜ぶ何となれば若し彼等が個々別々に居りたらんには随所に攪亂を試むべく余輩は新團體を以て政界の避病院として之を歓迎し且つ待遇せん

口だけで何もできない奴らに入ってこられるとむしろ邪魔になるから、そいつらがまとまって一段となっている方がやりやすいし、分かりやすいという事だが、同志研究会系(猶興会→又新会)は、社会主義はもちろん、社会民主主義政党も存在しない当時の議会の、最左派であった。これにすでに、今の左派政党と同じようなレッテル貼りをしようとしているのである。と言っても、実際には強がりという面が大きいのだろうが、こういったことで野党、あるいは非優位勢力がもめている事は、優位勢力(優位政党)を利するだけだし、自分達の置かれている状態、それに起因する問題点から目をそらすことになる。戊申倶楽部から新団体の無所属議員懇親会に出席した諸氏が同会の発起人に疎外されたことを内心不快に感じたとする、12月16日付の読売新聞は、新団体の人々が、戊申倶楽部を烏合の集団とし、現内閣の走狗、軟派の寄り合い場所と罵り、戊申倶楽部は新団体を政界落ち武者連の集合体と呼び、規律、統一なき天狗連の顔揃いのみと指笑しているとする。これは不毛な罵り合いであるが、それぞれに的を射ている点もある。

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