日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
実業派の動き・新民党(④)~無所属当選者の2分化~

実業派の動き・新民党(④)~無所属当選者の2分化~

『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部は、戊申倶楽部が1908年11月27日に結成されたとしているが、結成の動きは6月にはあり(同年6月8日付東京朝日新聞)、同時に無所属の議員達を含めた野党連合(当時はまだ第1次西園寺内閣期であったので、=非政友会連合)の形勢も模索されていた(例えば6月17日付東京朝日新聞。その後も多く報道されているが、第2次桂内閣の成立によって様子見のような状態となったようだ)。そして7月には、戊申俱楽部の名称、綱領等が決まっていた。この時に同派が結成されたと見る方が自然だ。7月26日付の読売新聞も、「成立」したと報じている。その結成の動きを見る。

1908年7月8日付の東京朝日新聞は、仙石貢(後に立憲国民党)、戸水寛人(後に立憲政友会)、蔵原惟郭(後に立憲国民党)、八束可海(後に中央倶楽部)、加治壽衛治(後に中央倶楽部)が、無所属団体の幹事であったとしている。このうち蔵原が又新会の結成に参加する他は、全員戊申倶楽部の結成に参加している。11月2日付の東京朝日新聞は、蔵原、佐々木安五郎、小寺謙吉、石橋為之助、藤沢元造が戊申倶楽部を脱したと報じている。彼らは皆又新会の結成に参加するから、無所属議員の大部分が戊申倶楽部としてまとまろうとしていた、その中から、猶興会に近い議員達が離れたという見方ができる。ただし『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部は、蔵原と石橋を猶興会の一員としている。筆者は事実を特定できないが、ここで挙げられている6名はそもそも戊申倶楽部に入っておらず、何らかの合流、連携を考え、あるいはそれに賛成し、顔を出していたに過ぎないという事もあり得る(衆議院の会派としてはメンバーを届け出る必要があるが、その提出が求められる帝国議会は、第10回総選挙後、12月になるまで開かれていない)。

7月8日、戊申倶楽部を結成することとなる議員達が集まり、財政の整理によってその基礎を強固にすること、税制整理、国債を償還する方法の確立、産業の拡張、外交の刷新を活動方針とする事に決めた。これは同月25日、戊申倶楽部という名称が決められた際に決議された(7月27日付東京朝日新聞)。7月26日付の読売新聞はこれを綱領だとしつつ、所属議員を束縛することについて、会派結成の準備委員の多くが肯定的であったが、決定はなされなかったと報じている。外交の刷新を第一に唱えていた(読売新聞の報道ではそうなっている)ことには、第1次西園寺内閣の外交が積極的なものではなかったこと、その与党であった立憲政友会の外交に対する関心が比較的小さかったことも背景にある。しかし何より、会派結成の呼びかけ人、準備委員であった戸水寛人の対外強硬姿勢の影響を受けたものであったと考えられる。このことだけでも、単なる実業家中心の会派とは異なる面を、戊申俱楽部には確認することができる(戸水は法学者であり実業家ではない)。戊申俱楽部の結成には、大同倶楽部から2名(加治壽衛吉、小橋栄太郎)、立憲政友会からも2名(飯田精一、松尾寅三)の議員が参加している。一方で、会合に参加しながら、戊申倶楽部の所属とならかった議員もいた。7月27日付の東京朝日新聞には会合の出席者と賛成者の氏名を掲載しているが、その中の不参加者は次の通りである。氏名の表記を基本的には『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に準じた。氏名の次には、次に所属する会派を記し、当時すでにそれに所属していたと見られる場合には、  を付した(猶興会に属していた場合には、「又新会」とした)。

出席者:藤沢元造(又新会)、大西五一郎(又新会)、梅原良(又新会)、小寺謙吉(又新会)、佐々木安五郎(又新会)、中村舜次郎(立憲政友会)

賛成者:蔵原惟郭(又新会)、多木久米次郎(又新会)、鈴木寅彦(又新会)、服部綾雄(又新会)、阪本弥一郎(中央倶楽部)、岩本晴之(立憲政友会)、松元剛吉(大同倶楽部に復帰)、的野半助(憲政本党)、福本誠(憲政本党)、榊田清兵衞(立憲政友会)、川越進(大同倶楽部―ただし東京朝日新聞によれば憲政本党、読売新聞では非政友とだけされている―)、橋本太吉(又新会―ただし東京朝日新聞、読売新聞によれば無所属―)、才賀藤吉(憲政本党→又新会)

12月17日付の東京朝日新聞は、手形騙取事件で有罪判決を受けて議員の資格を失った高野孟矩を除く44名を戊申倶楽部の議員としているが、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、高野が翌1909年2月23日の議員辞職まで所属議員とされている一方、44名のうち大西五一郎、福本誠、阪本弥一郎を参加者に含めていない(福本は無所属から立憲国民党の結成に、坂本は無所属から中央倶楽部の結成に参加したように記されている)。

以上から、非政友会勢力の合流の話が進まない中でも、無所属議員の大部分が会派を結成しようとしていたところ、猶興会に近い議員達が参加せず、同派と合流し、又新会を結成したと言えそうだ。しかし、無所属から又新会に参加した議員12名(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に基づく)のうち5名(金尾、桜井、田川、高木、細野)はもともと、上の会合には参加していない。つまり戊申俱楽部の結成に参加する気がなかった議員であると考えられる。この5名を多いと捉えると、「戊申倶楽部結成の動きから、又新会に参加する議員達が離れた」という見方は極端だという事になる。実際に、この見方を逆にしたような報道もある。上で見たものより約2カ月後の、9月28日付の東京朝日新聞は、猶興会や無所属による新団体組織の際、戸水寛人、梅原良、石田平吉が戊申倶楽部に関係していることから、協議の上で賛否を決するとして、決議に加わらなかったとを報じている。この新団体とは、又新会となるものなのである。梅原と石田は『議会政治百年史』院内会派編衆議院の部によれば、猶興会の所属であり、石田は又新会、戊申倶楽部の結成に参加している。又新会を結成する議員たちの集まりから、戊申俱楽部の結成に参加していた(『議会制度百年史』に基づけば結成に参加する事になる)議員達が離れたという面も、小さいながらあることになる。少なくとも、どちらかが優位にあったり、どちらか一方だけが主導権を握っていたわけでも、会派の結成に積極的であったわけでもないことが分かる。

戊申倶楽部を結成した無所属議員達と、猶興味会と合流(又新会を結成)した無所属議員達が当初、会派を共にする可能性があったわけだが、その時、すでに猶興会の議員であった者達も参加していたのだろうか(※)。そうであり、双方から不参加者が出ていなければ、85議席程度の大会派になっていた(憲政本党を20議席程度上回る第2会派になるから、改進党系は第3回総選挙前以来、約14年ぶりに第3会派に転落していたことになる)。

※ 猶興会は政党ではなかったし、総選挙前後には国会は開かれていなかったから、猶興会の所属議員たちを無所属(の当選者)と見ることもできなくはない。政界革新同志会のメンバーであれば、それでも党派性はあったと捉えられるが、政界革新同志会のメンバーであっても、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部を見る限り、無所属として当選した者だけではなく、猶興会所属の議員も戊申倶楽部となる会派を結成するための集まりに参加している。新民党という党派性のある議員達が、無所属議員の大会派の中に含まれる形になる可能性はあったのだ。

 

どうであれこのような、無所属がほぼ全てまとまる会派は、かつての中立派、中立実業派と同じく、会派としての姿勢をほとんど明確にしないものになっていたと想像する。9月29日付の東京朝日新聞には次のようにある。

戊申倶樂部には一方に於て戸水、中野諸氏を始め純潔の分子少からざると共に一方には世上兎角の批評ある人も亦尠からず然るに新團體は元人格に重きを置く者なれば玉石共に之を容るる事を欲せず從つて兩派合同の事は到底望なしと雖も當日丸山幸一郎石田平吉氏等は此間に立て種々奔走しつつあれど是は到底事実實に行はれざるべしといふ

又新会となる新団体は、戊申俱楽部の中野武営を入れる事はできても、全員は無理だという事である。戊申倶楽部には第2次桂内閣に近かったと見られる議員がいたし(本章実業派の動き(④⑤)~戊申俱楽部の野党性~実業派の動き(④)~戊申俱楽部の与党性と内部対立~参照)そうでない実業派の議員達も、第2次西園寺内閣よりは第2次桂内閣に、特にその初期は期待をしていた。それに対して猶興会は、政党内閣ではない内閣に反対であり、同派に近い政界革新同志会等の無所属議員達もそうであったと考えるのが自然だから、それらが合流すること自体が不自然であったのである。しかしそれでも、双方をつないでより大きな会派を結成しようとしていた者もいたわけである。丸山は戊申倶楽部の結成に参加する(参加した)無所属議員であるが、石田は猶興会に属していたにもかかわらず、戊申倶楽部の結成に参加している。大会派の結成が失敗した事を受け、(又新会ではなく)戊申倶楽部を選んだのだろうか。

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