日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
実業派の動き(④⑤)~戊申倶楽部の野党性~

実業派の動き(④⑤)~戊申倶楽部の野党性~

戊申倶楽部の実業派の中心人物の一人であった中野武営は、1909年1月の実業組合連合会講話会において意見を述べた(薄田貞敬編『中野武營氏翁の七十年』220-235頁にその内容が記されている)。そこで彼は、第2次桂内閣の方針をある程度評価し、税制整理の前に国債整理が必要であるという内閣の方針に同意しつつ、抽選で額面での償還をせず、不況下で投げ売りされる者を買っていては、公債、国家の信用が保てないとしている。そして実際の財政整理が、国債整理にとどまる不十分なものだとしている。また中野は、1909年度予算を、積極財政からの転換として評価しつつも、それをさらなる真の消極財政への、乱暴にならないような一過程として捉えており、もう切り詰める余地がないという立場の第2次桂内閣、他に財源がないために税制整理ができないとする第2次桂内閣を批判している。その上で中野は、以上のことを受けて、進んで注文を付けなければならなくなったため、3税廃止案を提出したと述べ、営業税の改正も必要だとしたのである。彼は「片務的財政方針を改めざるは明瞭」としており、第2次桂内閣の消極財政路線が真のものか、懐疑的に見ている。また中野は、中央銀行が民間の経済流通を省みていないとし、立憲政友会が藩閥官僚政府を擁護する中で、第2次桂内閣に真に国民世論に立脚した政治ができるのか疑問視している。そして、中野らに同意しない立憲政友会が過半数を持っているために、彼らの案が同院を通過しないという見方を示しつつ、同党を頼りにして国民の苦情を斥ける政府も、政党も、長続きしないとしている。戊申倶楽部は、このような見方をする商業会議所の推薦議員等の実業派の他、官僚派と呼ばれる山県-桂系の議員をも構成要素としていた(軍部、官僚出身者や実業家)。前者には、中野のような野党的な傾向もあったが(それでも第2次桂内閣の姿勢を見極めようとしていた)、後者には吏党系に分類した方が良いような、ともかく第2次桂内閣を支持するという傾向があり、間もなく統一性の欠如を見せることとなる。12月14日付の東京朝日新聞には戊申倶楽部について、次のようにある。

一口に同倶樂部を批評すれば前内閣に反對し現内閣に謳歌すべく造られたるが如し今其内容の精細を叙して之を證據立てんに加藤恒忠氏は前内閣時代に馘られたる怨あり井上敏之氏は軍人として山縣派なる現内閣に近きは勿論の事、中村彌六氏は進歩黨より桂前内閣へ降りたるもの、加治壽衞吉氏は山縣公以來の御用通信たる東京通信に主幹たるもの、仙石貢、片岡直温氏等の土佐派は現内閣の政策に滿足せる三菱派の代表者たる事と云ひ中野氏等の商業會議所派の奮起せし原因が前内閣の財政計畫の不可なるの點に存したると一面には現内閣の方針が大體に於て商業會議所の意見と合致する所あるが爲めと及び中野氏は進歩黨と歴史上の關係あるが故に是亦政府に對し敢て反對するものにあらざるべし叉七博士の随一として過激論者の一人たりし戸水氏も此頃空論の實行に伴はずして何等の効能なきを覺醒したる樣子なれば戊申派の主立つものは悉く政府黨なりと云ふも不可なき有樣なるを以て其態度の政府贊成に出て三税廢止に反對すべきは當然なるべし

補足すると、中野武営はもともと吏党系とし得る大成会の出身であったが、すぐに民党寄りとなり、進歩党の結成に参加したのだが、当時は中立派となっていた。この変化をとらえるためには、中野が第10回総選挙後で当選するまで衆議院議員ではなくなっていた事も重要だ。確認しておくと、憲政本党については、改革派は親第2次桂内閣、非改革派は反第2次桂内閣であったが、同党のライバルは立憲政友会であり、非常に有利な機会があれば、薩長閥に否定的な非改革派だって、桂内閣と組む可能性はあったと想像する。

さて、様々な理由から前内閣(西園寺政友会内閣)に否定的な立場の議員が集まったのが戊申俱楽部であり、それゆえに同派は、前内閣とは異なる路線の第2次桂内閣と、一致する面が大きかった。しかしそうであっても、例えば外交に積極的であったり、消極財政路線で一致するからといって、税制で合意できるとは限らない。当時の状況から第2次桂内閣が消極財政を採っていても、その先に軍拡等の国力強化があるのか、税負担の軽減があるのか。後者こそ本当の意味での消極財政だと思うが、山県-桂系は前者であった。もちろん、財界にとっても国力強化はマイナスではなかった。しかし、それが税負担と見合うかという問題はあるし、商業会議所では増税のダメージにより弱い、中小規模の商工業者の影響力が強まっていた。12月17日付の東京朝日新聞には、中野が自身の軟化を否定し、1910年度か1911年度に第2次桂内閣が3税を廃止するとした上で、そうであるから国民も多少の苦痛を忍ぶのだと述べた事が記されている。支持層の利益のためだとは言え、他の勢力とは異なり、あくまでも政策本位であると言えたそれはつまり時の与党に接近する可能性が高いという事にならざるを得ないが)。一方、仙石貢と片岡直温は、立憲政友会に対抗する新党の結成をより重視し、3税廃止に否定的であった(1901年1月13日付東京朝日新聞)。

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