日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
実業派の動き(④)~戊申倶楽部の与党性と内部対立~

実業派の動き(④)~戊申倶楽部の与党性と内部対立~

戊申倶楽部の不統一を露呈させたのは、同派の人事問題である。7月10日付の東京朝日新聞は、中野武営と西村治兵衛が開いた無所属議員の会合において、中野と西村が委員となり、両者の指名によって、片岡直温、肥田景之、中村弥六が委員となったことを報じている(片岡、肥田も実業派の議員とし得るが、片岡は次の再編において立憲国民党の結成に参加、中野と西村がいずれにも参加せずに無所属に、肥田と中村は中央倶楽部の結成に参加と、道を違えている)。この時点では、商業会議所の実業派である中野と西村、そして第2次桂内閣寄りであったと見られた片岡、肥田、中村の間には決定的な溝はなかったようである。それが12月15日の大会で、政府に対する態度を決め、5名の幹事を選ぶことになり、明確化している。幹事となることが決まっていた中野、戸水、仙石貢(後に立憲国民党、立憲同志会)の他に、中村弥六と片岡直温が選定されることになると、それでは第2次桂内閣に接近したと見なされるだけでなく、3税廃止案等に対する態度を決めるのに不便が生じると、同派の、委員以外が申し合わせたのだという(1908年12月10日付読売新聞)。12月5日付の読売新聞によれば、中村弥六らが幹事に選ばれようと運動をしていた。しかし、中村の言動のために政府の別動隊だという世評を受けているとする実業派は、それを阻止しようとしていた。そしてそれに失敗した場合には戊申倶楽部を脱し、純粋な商工党を組織する意気込みであったという。一方で12月6日付の東京朝日新聞は、実業派の多くが役員の問題については冷淡なものの、中村豊次郎(後に中央倶楽部)は幹事になろうとしていると伝える。12月10日付の同紙は、幹事になることが確定しているのが中野、戸水、仙石であるとし、他に中村弥六、片岡直温が選ばれれば、世間が同派を内閣に接近するものと見るとしている。結局、議員数に比して幹事が多いという意見が出て、幹事は上の3名の内定者のみとなった(12月17日付東京朝日新聞)。12月26日付の東京朝日新聞によれば、中野、西村ら商業会議所派は、江間俊一(後に中央俱楽部)、稲茂登三郎(後に立憲政友会)らを黒幕として、戸水、井上敏夫、米田穣ら加賀派(3名とも後に立憲政友会へ移動)と提携して、これを成功させた。そして片岡、中村らはこれに反発し、幹部派に肉薄して、以後割り当てが来る委員(何を指すか、筆者には断定まではできない)は、幹部派に渡さないことを決めたのだという。この幹事の、大会における選定については、12月17日付の東京朝日新聞が詳しい。まず中野が大会の座長となり挨拶をした。次に江間が大会の前に開かれた協議会の申し合わせを動議として提出した。これは異議がなく成立した。これにより、連記無記名で銓衡委員を選挙し、その銓衡委員に、任期が1年の3名の幹事の人選を一任することとなった。選挙の結果、千早、江間、肥田、井上、片岡、小橋、飯田、稲茂登、木村が当選、彼らは中野、仙石、戸水を幹事とした。同日付の読売新聞は、このうち、戸水以外が桂内閣に好意を示しており、戊申倶楽部が内閣に迎合するとしている。なお、同派が当初約100名(つまり100議席)となる見込みであったが、実際にはその半数程度となったということが、幹事を減らす理由とされた。委員の間では、前幹部を幹事とする主張(片岡)と、若手を幹事とする主張があったらしい。ちなみに100議席になるには、当時の無所属議員を全員集めて(それはさすがに難しかったはずだ)、約35名を、猶興会か大同倶楽部、憲政本党、立憲政友会から集めなければならない計算となる。

少しさかのぼるが、1908年7月14日付の東京朝日新聞は、肥田、八束可海、大同倶楽部出身の加治壽衛吉が、お味方議員(第2次桂内閣支持派)として、無所属議員の操縦に当たると報じている(彼らは3名とも中央倶楽部の結成に参加する)。7月31日付の東京朝日新聞には、立憲政友会の幹部全体の戊申倶楽部に対する評価について、記されている。それは同党の長谷場のもの(本章実業派の動き第3極(④⑤)~戊申倶楽部と立憲政友会、他の党派~参照)と変わらないが、統率者がいないことを弱点とする見方が加わっている。どれだけ本気で言っているのかわからないが、適当な統率者を得れば、憲政本党を凌駕する勢力になるという見方すら示している(戊申俱楽部を結成した議員達が当初見込んでいたという100議席と一致するような感じがして、興味深い)。実業派、実業派でない者も含む山県-桂系に近い議員の組み合わせによる戊申倶楽部も、同派と同様の面があった甲辰倶楽部(第9回総選挙後)も、桂内閣が消極財政を採れば、それを会派全体として支持し得た。そして実業派は財政に(やや)余裕がある時には、減税(闇雲に下げるという事ではなく、公正さ、過大ではない負担)、地方への利益誘導優先ではない、通商支援、産業振興等、商工業上の積極政策を求める議員達であったと考えられる。日本の産業構造が変化する中で、証拠遊行の代表者として定着すれば大勢力になりそうなものだが、現実はそう単純ではない。国民に浸透していた大政党以外の勢力の団結、躍進は、自力では困難であったと言える。

戊申倶楽部の主張が不明瞭だとする11月30日付の読売新聞によれば、第25回帝国議会前の、役員を選定する総会を機に、同派は政治派と実業派とに、事実上,分裂している状態に陥った。記事は、戊申倶楽部では実業派の方が7、8名多いものの、それぞれ議員の他に職を持っているため、実際に会合に出席する議員達の中では、政治派が多かったとしている。このため政治派の意見が戊申倶楽部の意見として発表され、実業派が感情を害し、これが役員選定における両派の対立を招いたというのだ。記事の言う「政治派」とは、山県-桂系の(に近い)、つまり桂内閣に近い、官僚派とも呼ばれた議員達を指すものと考えられる。なお、1908年4月15日付の読売新聞によれば、戊申倶楽部内では、指導者のような影響力を持った戸水に対する反発が広がっていった(中野と協力した事に対する、山県-桂系―寄り―の議員達からの反発もあったのだろう)。このため戸水と、彼に近かった米田、井上、小橋は、同派を脱する準備を始めた。実際には、戸水寛人、米田穣、井上敏夫の3名が、1909年9月8日に立憲政友会入りした。対外強硬派の戸水と立憲政友会とでは、外交に関する考えが全く違うが、そんな事は関係ないのだろう。同派からは他に、世良静一が同年8月2日に、松尾寅三と石田平吉が9月25日に離脱し、無所属となった。世良は立憲政友会入りしており、松尾は以後、会派には属していない。石田は中央倶楽部の結成に参加する。

このように戊申倶楽部は、その本格的な船出に際して、深刻な不統一を見せた。もっとも、猶興会寄りではない無所属の議員が大方集まったのだから、内部対立があっても不思議ではなかった。「幹部派」となった中野ら商業会議所派であったが、彼らだけで商工党を結成した場合、10議席程度となるのが関の山であり、それを分かっていた(1909年3月30日付読売新聞)から、中野もそのようなものを結成しなかったのである。実業派の議員も、全てが中野らに同調していたわけではなかったのだろうし、中立実業派的な会派を結成し、その中心となる事が、当時の日本の産業構造下で、実業家の議員達にできる最大限であったと言える。山県-桂系に懐疑的な議員達と、山県-桂系に好意的な議員達が、それぞれ自らに近い勢力と合流することが自然であるようにも思えるが、それでは実業派は、実業派としては埋没してしまう(結局前者は無所属となる)。

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