日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
実業派の動き(④⑤)~戊申倶楽部と立憲政友会、他の党派~

実業派の動き(④⑤)~戊申倶楽部と立憲政友会、他の党派~

1908年6月8日付の東京朝日新聞は、各勢力から引っ張りだこになっている無所属議員の中に、新参者扱いされるとして入党を躊躇する者が多いとしている。そしてその中で、戸水寛人、鵜沢総明、長島鷲太郎という学者の議員は、断然既成政党には加わらず、新たに倶楽部団体(会派だと言って良いだろう)を結成しようと協議中だとしている。この中で、鵜沢と長島(共に千葉県郡部選出)の2名は、立憲政友会に加わった(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では立憲政友会から当選している事とされている)。誤報なのか気が変わったのかわからないが、新参者扱いされたくないという動機で戊申倶楽部の結成に参加した議員がいくらかはいたのだろう。ちなみに1908年12月17日付の読売新聞は、桂内閣成立時、戸水が内務大臣に就こうと交渉したという風説があるとしている

9月30日付の読売新聞によれば、蔵原惟郭(結局又新会へ)、八束(戊申倶楽部)が非政友連合で衆議院の正副議長を得ようとしたのに対し、立憲政友会と組んで立憲政友会が議長を、戊申倶楽部が副議長を得るという計画を立てていた議員がいたようだ。その後、戊申倶楽部には、立憲政友会に寄る動きは、噂はあっても明確には見られなかったから、同派の内部が、非政友会の議員達と政友会寄りの議員達に明確に分かれていた、というわけではなかったようだ。ただし、後に実際に立憲政友会に移る議員は現れた。7月27日付の東京朝日新聞には、他の会派の、戊申倶楽部に対する評価について記されている。立憲政友会の長谷場純孝は、政党を嫌っていた実業家が、政綱のある団体を結成したことを評価し、政綱についてもほとんど異論がないとしつつ、外交刷新については軍拡を意味するものだとして、同意できないとした(当時の立憲政友会の姿勢を表しているようで、興味深い反応だ)。大同倶楽部の臼井哲夫は、戊申倶楽部の議員数を侮れないものだとし、社会多方面の人材を網羅した、国論の標準を代表するのに最も適当な新団体だと評価しつつ、その多様性と所属議員の行動が自由であることを合わせて、統一を欠くという弱点があると見た。政綱については殆ど一致しているとし、外交刷新について、最も意を得たものだと評価した。憲政本党の木下謙次郎(改革派)は、戊申俱楽部の政綱を賛成しない者はいないようなものだとし、同派の議員達が統一行動をとることができるのか、疑問視した。一方で戊申倶楽部結成の精神を評価し、主張が一致することから、将来の提携も難しくないとした。猶興会の議員(某氏とされている)は、政綱が抽象的であること、統一性の欠如、大同倶楽部と変わらない立場の勢力であることを指摘し、つまりは最も批判的な目を戊申俱楽部に向けた。戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢、肥田景之、中野武営、中村弥六は7月27日、桂首相に同派の政綱について説明をしに行っている(7月31日付東京朝日新聞。「猶聞く所に依れば首相の大體の政見は戊申倶樂部の政綱に似寄り居れりと云ふ」としている)が、それだけで桂寄りであったと断定はできない。

桂総理が中野と会い、1909年度の予算編成方針を説明した際、中野は3税廃止を求め、桂と意見の違いはないものの、優先順位を見てからでないと同意できるかは分からにという姿勢を示した(「戦前日本の商業会議所立法」16~17頁。この際桂は、軍拡に批判的であった中野に対し、理由は言えないが、陸海軍の費用が止むを得ず必要だ述べている)。以上からは、野党の2分化(本章野党の2択(③⑤)~憲政本党の2分化を決定的にした「政権交代」~等~参照)も見える。

 

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