日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振(⑤)~吏党系の財政政策~

(準)与党の不振(⑤)~吏党系の財政政策~

吏党系は元来積極財政志向であった。しかし、帝国議会開設早々に積極財政志向となっていった自由党系と対立関係になる事も多々あったし(選挙で競合するのだから当然である)、1905年12月に甲辰倶楽部、有志会、無所属の市部選出議員と合流したことで(合流不参加者もあったが)、そして何より、山県-桂系中心の内閣に連なる勢力であったことから、消極財政を支持し得た。それはまた、第2次山県内閣(と自由党系が決裂して)以降、山県-桂系主体の内閣と、自由党系(立憲政友会)中心の内閣が交互に政権を担う中で、本来積極財政志向(ただし利益誘導型)である立憲政友会と、第1次西園寺内閣の初期を除いて対立関係にあった大同俱楽部が、立憲政友会との差別化を図る場合にはメリットがあった。共に積極財政で競争しては、多くの地域に根を下ろし、利益誘導政策を自らが中心の内閣で明確に採用し得る立憲政友会には敵わなかったといえる。吏党系は薩長閥に連なる勢力ではあっても、薩長閥にはまだまだ政党に否定的な見方があり、政党らしく根を下ろす事は、薩長閥要人(特に山県)の姿勢と、矛盾してしまうやり方であった。

 

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