日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党(④)~同志研究会系の拡大~

新民党(④)~同志研究会系の拡大~

主義綱領の拘束を加えず、単に意思統合した代議士の会合にしようという花井卓蔵の提言により、政党ではなく会派にとどまるものとして、しかし国家の大問題については歩調を一にする事を誓約し(中山義助編『河野磐州傳』下巻728頁)、猶興会系と、同派の議員ではなかったために無所属となっていた政界革新同志会系の新人議員等によって、12月21日に又新会が結成された。又新会の結成に参加した議員の中には、立憲政友会の所属であった議員が1名(横山金太郎)、憲政本党の所属であった議員が4名(佐野春五、才賀藤吉、鈴木力、村松恒一郎)含まれていた。憲政本党からはさらに、結成から2日後の23日に坂初太郎が加わり、第25回議会の衆議院開院当日には、又新会45議席となっていた。ただし田坂は、詐欺取財の罪で有罪判決を受けたことで、1909年2月23日に議員の資格を失った。猶興会は7月5日、猶興会と同じく非募債、非増税の方針を採る政府は援助するとしていた(1908年7月7日付東京朝日新聞)が、実際には反政府の立場を貫き、その姿勢は又新会にも引き継がれた。11月6日付の読売新聞は、新団体、つまり又新会となる勢力に、藩閥内閣を根本からは否定しない、軟派がいるとした上で、島田三郎がそのような軟派に近来傾いる事を嫌う議員がいるとしている。島田についてはしかし、実際には大合同と小合同の問題(本章野党の2択新民党(⑥)~憲政本党の大合同と小合同~等参照)である。つまり立憲政友会でない勢力なら、吏党系とも合流すべきだとする考えで、それをもって直ちに薩長閥寄り(山県-桂系寄り、第2次桂内閣寄り)とする事はできない。

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