日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党の2択・新民党(⑥)~憲政本党の大合同と小合同~

野党の2択・新民党(⑥)~憲政本党の大合同と小合同~

犬養除名の理由には、衆議に諮らず、党の正当な機関によらず、独自に他派と合流の交渉をして、拒絶された事、正式に決定した新党結成の進行を妨害し、別に自らの事務所を設け、衆議院議員を誘引している事が挙げられている(『憲政本黨黨報』第3巻第8号3頁)。新党結成(正確には「新政黨組織」と記されている)とは、改革派が唱えていた大合同を指す。その大合同とは本来、立憲政友会以外の勢力が全て合流することであったはずだが、改革派の大合同にはこの当時、又新会が含まれていなかった(少なくとも大同倶楽部、戊申俱楽部より軽視されていた)ことが、報道からうかがえる(なお、小合同とは薩長閥と近い勢力を排除した合流)。例えば1908年7月10日付の東京朝日新聞は、憲政本党、大同倶楽部、無所属の有志議員間に新政党組織の計画があるとしている。この「無所属」に猶興会が含まれる可能性はあるが、12月27日付の同紙は、憲政本党の改革派と戊申倶楽部、場合によっては大同倶楽部も合流し、一大政党を組織しようとする計画があると報じている。1909年3月4日付の同紙は、憲政本党、大同倶楽部、戊申倶楽部の新政党組織協議会について報じていている。犬養の書簡にも、「非政友ノ三文字ヲ以て大同戊申進歩の三派を併合せしめんとするハ我黨中の一派の計畫也」とある(『犬養木堂書簡集』99頁)。これは1909年のものとされており、9日付と記されているが、何月のものか分からない。1909年を下っていくと、又新会も明らかに合流の対象となってくるのだが、主にどの勢力と合流しようとするのかという事が、憲政本党内の争点の一つとなっていた事は確かだろう。改革派が、当時の第2次桂内閣に近い、大同、戊申両派を、少なくとも合流する主な対象としていたことは間違いない。民党的であり、何よりポーツマス条約に反対して暴れた同志研究会系(猶興会→又新会)まで含めれば、山県-桂系に警戒されて当然であり、改革派がそれを避けたがっていたことは想像に難くない。

一方で、犬養は又新会に合流を働きかけたのだが、改革派との合意による動きでないことから、断られている(1909年2月17日付東京朝日新聞)。犬養が働きかけたのは、又新会でも幅広い勢力の合流を模索していた島田三郎であったから、断られたのは当然であった。そしてこの島田の対応も、又新会の総意に基づくものとは言えなかった(又新会内で意見がまとまった事がなく、総意がそもそもなかったとも言える)。犬養(非改革派)は、憲政本党自体の路線の変化自体は受け容れても、薩長閥寄りの勢力をほぼ唯一の相手とする合流は、止めたかったのだろう。

その後、改革派も又新会との合流に動くのだが、それが明確になるのは、島田が犬養からの働きかけを拒んだ後、また、憲政本党内の不統一により、再編の動き自体が停滞した後である。1909年2月18日付の読売新聞は、憲政本党の改革派が中心となり、大同倶楽部を縫合して政府擁護党を組織しようとしていた「非政友的新政黨組」が又新会の一角を誘致しようと動いたと報じているが、その秘密運動の「主任」となったのは、共に大同倶楽部所属の、浅野陽吉と松本恒之助であったとしている。両者は又新会の所属であったので、又新会内で動いていたという事である(両社とも有志会の出身で中央倶楽部の結成に参加する。もともと吏党系とつながりがあった可能性もある)。なお記事は、又新会では現状維持説が多数派であり、新党が「純民黨」であれば賛成であったとしている。

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