日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・野党の2択(⑤⑥)~優位政党兼野党第1党~

1列の関係・野党の2択(⑤⑥)~優位政党兼野党第1党~

立憲政友会では、桂を後任の総理大臣に推薦した西園寺ら上層部は、第2次桂内閣に対して好意的中立の立場を採ろうとした。しかし党内には、山県-桂系に反発する議員も少なくなかった。公家、伊藤博文系の出身であり、薩長閥とは同じ【支配者層】、【政界上層部】の仲間であるとも捉えられる西園寺総理(当時)は、そろそろ辞めたい、あるいは少なくとも辞め時だと思っていたのだろうが、他の議員からすれば、政権を奪われたに等しいのだから、反感を持って当然である。もちろん、協力する相手を立憲政友会に限らない桂総理の姿勢も、第2次桂内閣と立憲政友会との関係に影を落とすものであった。第2次桂内閣に反感を持つ議員の中には、強硬論もあった(※)。しかしそれでも、再び政権を担当しようとする立憲政友会(の執行部)は、反対のための反対はできなかった。そしてもう一つ、野党(準野党)時代の原敬は、桂総理(山県-桂系)が憲政本党と接近する事を警戒している。1908年8月4日の原の日記には、桂が西園寺立憲政友会総裁に、「議會政略としては進歩黨とは決して提携する事なしと明言せり」と述べた事が記されている(『原敬日記』第3巻215頁。当時は憲政本党を進歩党と呼ぶ事が多かった)。自由党系が改進党系より薩長閥(の中の有力な勢力)と遠くならないようにする事が、自由党系の立場を守るために重要であった。

なお、立憲政友会は利益誘導政治で基盤を安定させていくわけだが、第25議会で同党は、東北と九州を中心に鉄道拡張を要求している(伏見岳人『近代日本の予算政治』159頁)。これは西園寺総裁を別として、立憲政友会の2大実力者であった原敬と松田正久の地元である。一方、鉄道が比較的普及していた関東圏の議員団が、地租軽減を強く訴え出す傾向があった(同166頁)。

※少し先の事ではあるが、1910年2月8日付の原の日記には、立憲政友会と第2次桂内閣の妥協案について、代議士会で23~24名が反対であった事、松田正久の語気が強い事が、党の九州団体に強硬論が多い理由である事が記されている。原と松田では、自由民権運動出身の松田の方が、薩長閥に対して強硬的であった。原はまた、強硬を装って何か交換して折り合うというような事は自由党時代の慣手段であり、松田は時勢の推移に気付いていないとしている(『原敬日記』第4巻12~14頁)。しかし原も時に桂を脅し、政権を譲り受ける事に成功している。実際に強硬な態度をとると、桂が立憲政友会との協力以外の選択肢を求めてしまう。だから党にとって危険だ、という事もあるのだろうが、それ以外の面では程度の問題に過ぎないと筆者は思う。

 

 

 

 

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