日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
実業派の動き(⑤)~戊申倶楽部の内部不統一~

実業派の動き(⑤)~戊申倶楽部の内部不統一~

立憲政友会の荻野芳蔵らが提出した商業会議所法中改正法律案は、同党中心の内閣に反旗を翻した商業会議所に対して、事実上ペナルティを課すものであった。また、商業会議所が非政友会勢力(が合流してつくられる新党)、野党的な勢力の支持基盤になる事を、立憲政友会、山県-桂系がけん制しようとしたとしても不思議ではない。立憲政友会以外の会派が反対し、衆議院の委員会では賛否が同数となり、委員長の決済によって可決された。この法案の成立によって、商業会議所は、会費を国税滞納処分法によって強制的に賦課することができなくなった。法案が貴族院で可決された事からも、山県-桂系が、3税廃止などについて野党のような姿勢もとっていた商業会議所連合会に対して、批判的であったことがわかる(大同倶楽部で反対の意見を述べたのは名古屋商業会議所の鈴木総兵衛。強く反発している―『帝國議會衆議院委員會議録』第5類第40号第6回15頁―。鈴木は吏党系本流の帝国党の出身ではなく、立憲政友会を離党し、中正倶楽部、甲辰倶楽部に属していた。桂総理は強硬的ではなかったようだ)。戊申倶楽部の岩下清周は、商業会議所の存在に異議を唱え、賛成の立場から演説をした(『帝国議会衆議院議事速記録』二三508~509頁)。ここでは岩下が、又新会の卜部喜太郎(弁護士)を、「唯今最モ雄辨ナルトコロノ卜部君ガ、又最モ此實業ニ緣ノ遠イ卜部君ガ、此案ノ反對演説ヲナサイマシテ」と皮肉交じりに批判している(ちなみに又新会の早速整爾は商業会議所連合会で重きをなしていた)。岩下は後に又新会の後継の会派に参加し、所属し続ける。だから新民党的な存在を否定しているとは考えにくい。岩下は自らが大阪商業会議所の特別会員である事を述べた上で、商業会議所を概して無用の長物であるとして、その必要性を感じない物から強制的にカネを取るなどする事を批判している。これは強制徴収を非民主的だと批判しているのだとも言えるし、個人主義的な考えだとも言える。それはやはり商業会議所をどう評価するのかによっても変わってくる。しかし戊申倶楽部の実業派の中野らにとって認め難い内容の法案、実業派にとって最大の関心事になり得る法案に、同じ戊申倶楽部の議員が賛成討論をするというのは、いくら岩下が例外的であっても、戊申倶楽部が政党ではなくても、同派の存在意義を疑わせる。法案成立によって商業会議所が追いつめられたのは確かだが、原敬の日記には、中野武営が立憲政友会入りを申し込んだという記述まである(『原敬日記』第3巻296~297頁-1909年4月11日付。原は中野が第1次西園寺内閣に反対していたことについて、大浦ら山県系の教唆があったと見ており、桂が立憲政友会と提携した事で、中野が事業のために立憲政友会入りを申し込んだと見ている)。

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