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実業派の動き(⑥)~戊申倶楽部の新党結成についての賛否~

実業派の動き(⑥)~戊申倶楽部の新党結成についての賛否~

1909年2月18日付の読売新聞は、憲政本党の新党結成の申し出について、戊申倶楽部の仙石、戸水、中村豊次郎、加治、八束、中安、小橋が協議し、戸水は時期尚早だとしたものの、新党結成が必要だということで一致したことを報じている。それを受けて小橋が大同倶楽部の横田を訪ねたことが記されている。そして戊申倶楽部では、第25回帝国議会閉会の頃、解散論が持ち上がった。新党結成の機が熟していない中で、他派の波乱を受けて同派の委員が動いたことを、斎藤巳三郎が、盲動だと批判し、また同じような計画の渦中に投じられる恐れがあるため、解散すべきだとしたのだ(3月26日付の読売新聞によれば西村治兵衛も解散を主張)。このことを報じた3月25日付の東京朝日新聞には、新党結成に関する各議員の賛否が次のように記されている。「※」の記述は筆者が記したもので、新党反対派には立憲政友会に移る議員が多く、賛成派にはそのような議員がいない事、東京、大阪両市選出の議員、特に中野らが反対していたことが目を引く。

反対:江間、稲茂登、西村、岩下、倉光、斎藤、磯部、井上、渡辺、星、丸山、米田、牧野、加藤、豊増、小橋、中野、戸水

※江間、斎藤、丸山、牧野、小橋が中央倶楽部へ、豊増が立憲国民党へ、井上、渡辺、米田、戸水が立憲政友会へ

賛成:木村(省吾)、中安、木村(良)、片岡、中村(豊次郎)、八束、千早、中村(弥六)、加治、富田、和田、肥田、仙石

※木村、中安、木村、中村、八束、千早、中村、加治、肥田が中央倶楽部へ、片岡、豊田、仙石が立憲国民党へ

未定:鈴木、安藤、清水、村田、高橋、世良、森田、松尾、飯田、石田

※鈴木、清水、村田、森田、石田が中央倶楽部へ(ただし石田と清水は結成直後に離脱し、清水は立憲政友会へ)、高橋、世良が立憲政友会へ

結局、経費を縮小することになり、解散は回避された(※)。このことは、戊申倶楽部に会派としての活動を重視していない議員が多かったとも、中立性を損なう活動に否定的な議員が多かったとも想像させる。が、しかし賛成派に吏党系の出身であり、中央倶楽部にも参加する加地、肥田がいる事、桂総理に近いと言われていた片岡、中村弥六がいた事、新党に肯定的な議員、積極的な議員に、中央倶楽部に参加する者が多い事を考えると、この時反発を招いた動きが、山県-桂系(寄り)の動きであり、そのような動き、議員達に経費が使われる事にも反発があったのだとも考えられる(ただし斎藤も中央倶楽部に参加している)。

※1909年3月30日付読売新聞。この決定にひそかに異議を抱く者があり、井上他、数名の離脱者が出る見込みであったことも報じている。井上敏夫は実際に離脱して(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部によれば1909年3月24日)立憲政友会入りする(同年9月8日)。3月頃の離脱者は井上だけであったようだが、同年8月から9月にかけて世良、戸水、米田(以上立憲政友会入り)、松尾、石田(以上無所属に)が離脱している。

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