日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党の2択(⑥)~改進党系、非改革派の下での先祖返りと再編の停滞~

野党の2択(⑥)~改進党系、非改革派の下での先祖返りと再編の停滞~

憲政本党では、改革派が非改革派に譲歩することで、党内融和が演出された。1909年10月28日の臨時党大会において、官僚政治批判(薩長閥批判)、責任内閣、文武均衡、悪税改廃を謳った、つまり非改革派の主張に沿った宣言が採択され、分裂状態が一応は終息したのである(『憲政本黨黨報』第4巻第2号1~5頁。官僚政治批判は「一國の大政は以前官僚派の壟斷する所となり未だ國民的大起訴の上に運用せらるゝに至らず」)。憲政本党において非改革派が優位となったことで、同党と大同倶楽部との合流はますます難しくなった。さらに宣言中、悪税改廃の中で地租軽減を優先することを謳ったため(「税制を鞏固にし惡税を改廢し殊に地租を軽減して国民の負担を公平にし」とある)、3税廃止、営業税軽減を唱える議員達と、第2次桂内閣寄りの議員達から構成されていた戊申倶楽部との合流も、より難しいものとなった。残る連携相手は又新会であった。そもそも又新会と憲政本党非改革派は、進歩的な勢力同士、比較的相性が良かった。しかし3税廃止・営業税軽減は又新会の主張でもあった。地租軽減を優先する事になれば、同派との距離も遠くなってしまう可能性があった。これも非改革派の犬養に、立憲政友会との野党連携を目指す考えがまだ残っていた、その一因かもしれない。ただし、この同志研究会系(猶興会→又新会)は、第10回総選挙前こそ、市部選出議員の割合が3分の1とかなり高かったものの、又新会結成時には6分の1弱になっていた。それを考えると、憲政本党と又新会の相性が悪くなったとまでは言えなかった(市部選出議員の割合が下がったという点では、同志研究会系と改進党系は似ているとすら言えた)。犬養は、同志研究会系が中心となっていた政治改革革新会について肯定的であった(第9章新民党第3極(⑪)~政界革新同志会について~参照)から、同派との連携、合流を望んでいたと考える方が自然である。

 

 

 

 

 

 

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