日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党・第3極(⑪)~政界革新同志会について~

新民党・第3極(⑪)~政界革新同志会について~

1907年3月5日、維新倶楽部(本章補足~日比谷焼き討ち事件から政界革新同志会の結成まで~参照)、国民倶楽部(同参照)、江湖倶楽部(第8章補足~離党者が続出した立憲政友会と、対外強硬派の動き~参照)、猶興会、鶴鳴会(本章新民党(⑥⑧)参照)、国家社会党(本章補足~無産政党~参照)、憲政本党の一部院外団体等が、政界革新同志会を結成した(註)。同会は、腐敗の弊害の一掃、そして選挙が、国民を覚醒させ、政治的教育を普及させるための無二の好機であることを内容とする、決議をなした。同会における島田三郎の演説には、日清戦争後のように賠償金等を得ていないこと、そして当時の情勢から、軍拡よりも産業の発達を優先させるべきだとする主張が含まれている(島田三郎述『政界革新論』42~47頁)。17名の常任委員のうち、6名(大竹貫一、加瀬禧逸、河野広中、坂本金弥、島田三郎、山口熊野)が衆議院議員であり、いずれも猶興会の所属であった。発会式で最初に挨拶をしたのが大竹、大竹の推薦で座長席についたのが河野、開会の辞を述べたのが島田、決議案を朗読したのが山口であった(大国民27号31頁)。他に、次の第10回総選挙で当選して、又新会結成に参加する細野次郎、村松恒一郎、蔵原惟郭、そして、桜田倶楽部(近衛篤麿の対外強硬派の団体―第8章第3極2大民党制(⑤~⑦)で触れた―)、対露同志会で活動した五百木良三も常任委員であった。

国家社会党は、普通選挙を唱えていた点、講和条約の締結と、それに反対する国民集会への干渉に反発した点(1905年9月9日付読売新聞)、アメリカにおける日本人排斥の動き(本章1列の関係(準)与党の不振(⑧)参照)について報復を唱える(1906年10月7日付東京朝日新聞)など、対外強硬派であった点などについて、確かに猶興会と近かった。しかし綱領(1905年8月20日付読売新聞)からは、帝国党の結成前後に吏党系が目指していた、国家のために社会政策を実行するという方向性(第6章補足参照)に近いという印象も受ける。同志研究会は、自由主義ではあったものの、衆議院の最も左の極として、そのさらに左にあった穏健な社会主義者とも、対外強硬派であった点を別とすれば、一定の親和性があった。国家第一か、国民第一かという理念で分けるなら、吏党系・国家社会党、新民党・社会(民主)主義勢力という分け方も、おかしくはない。しかし新民党はあくまでも自由主義勢力であった。吏党系も自由主義ではないとは言えないが、帝国党出身者などをみれば、国家主義の色も濃かった。

猶興会等の政界革新同志会と、第10回総選挙に積極的に関わろうとしていた、既成政党に属さない実業家達が連携すれば、その双方の影響力が強まる可能制があった。憲政本党非改革派の犬養は、書簡において、政界革新同志会に関して次のように記している(『犬養木堂書簡集』83頁-1907年5月23日付笹原定治郎宛犬養毅書簡。笹原は社会主義運動家)。

御問合の大體におゐて小生は其主意ヲ賛成スル者ニ御座候然レトモ既成の政黨ヲ外ニシテ別ニ革新ヲ計らすトモ已ニ成立の政黨アル以上ハ之ニ就テ改良モ爲し得ラルヘシト小生ハ確信致し居候畢竟スルニ政黨ニ於テハ正邪ヲ標準ト爲スガ上ニ成敗ヲモ考量セサル可からさるが故ニ實地ニ臨ミテ困難の事ニ遭遇スル者也若し一騎武者ニテ一切成敗ヲ度外ニ置テ只自己一身ヲ屑フし只自家言論ヲ雄ニセント欲せバソハ何人にも容易ニ出來ル者也と存居候此點が實地問題トシテ考フヘキ所ニ御座候

是れが島田氏ナドと我々の違フ所ナルベキかとも被存候

政界革新同志会について、志向が近いはずの自分(犬養)の下へ参集しなかったという点で、成功を考えない青臭い、潔癖な勢力だと批判しつつ、連携を期待しているように見える。

しかし犬養の憲政本党は、政界革新同志会が否定するような、積極財政、薩長閥接近へシフトした改革派と、同会と近い路線であった非改革派に二分されていたのだから、犬養の主張は、さすがに説得力に欠けていたと言える。同会と連携し、さらに主導権を握るというのなら、犬養も憲政本党の分裂、場合によっては自分が離党することを覚悟して、路線を明確化しなければならなかった。つまり、政権からさらに遠ざかることになっても、新民党的な色を強くするということであるが、実際に後に、それに近い状態になる(第14章で見る)。これこそまさに、日本の非優位政党のジレンマだ。権力を求めて右によれば左の勢力を失い、政権交代の希望がない中で政権と対立すれば、右の勢力を失う。しかし優位政党と渡り合うためにはどちらも失うわけにはいかない、一方を失っても勝てるような、状況の変化も期待できない・・・。

政界革新同志会が税負担の軽減を志向していたことは、同会の中心であったと言える同志研究会の系譜の姿勢を見ればほぼ明らかだ。ただし、それは立憲政友会の利益誘導政治、山県-桂系の軍備偏重に対する批判であって、公正な産業発展のためのインフラ整備については、むしろ唱えていた(例えば島田三郎『政界革新論』47頁)。この点でも、中立実業派とは親和性があったと言える。

註:『大国民』第26号(1906年2月20日発行)17頁、第27号(1907年3月5日発行)13頁。宮地正人『日露戦後政治史の研究―帝国主義形成期の都市と農村―』253~259頁、櫻井良樹『大正政治史の出発―立憲同志会の成立とその周辺』59~63頁が、国民倶楽部や、この政界革新同志会について詳しい。

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