日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党再編・実業派の動き・新民党(⑨⑩)~議会が裂く非政友会勢力~

野党再編・実業派の動き・新民党(⑨⑩)~議会が裂く非政友会勢力~

帝国議会の会期に入ったことで、新党結成の機運が高まる一方、予算案や重要法案に対する立場について、各勢力の差異が浮き彫りとなった。それを考えれば、この時期に左右別々の小合同へと進んだのは、ごく自然なことであった。1910年度の予算案は、緊縮財政路線をなるべく維持しようとするものではあったが、官吏の増俸も含まれており、前年度よりは規模が大きくなっていた。

日露開戦後、地租が2回引き上げられても、戦時であった事、米価が上がっていた事から、不満の声は小さかった。それが終戦から4年が経ち、米価が下がった事で、久しぶりに、地租軽減を求める声が強まる事態となったのである。郡部に支持基盤を持つ2大政党は当然、この声を無視しなかった。大同倶楽部、戊申倶楽部、又新会にも地租軽減を求める議員がおり(大同倶楽部は郡部選出議員の割合が高かったし、市部にも当然、地租はある)、戊申倶楽部ではこのことが内部の分化を促す一因となった(本章実業派の動き(⑨)~揺れ続ける戊申倶楽部~参照)。そして同じ非政友会勢力であっても、地租軽減を重視する憲政本党(非改革派優位)、又新会(田畑だけでなく、市街宅地の地租も下げることを決議している―1910年1月29日付読売新聞―)と、営業税の軽減等を優先する議員達、第2次桂内閣寄りであるために地租軽減を求める事に積極的にはなりにくい議員達を構成要素とする戊申倶楽部との合意は、ますます難しくなった(山県-桂系に連なる大同倶楽部とも当然ながら同様―※―)。営業税軽減等を優先する議員達は、戊申倶楽部内でも又新会と比較的近い議員達であったから(又新会の早速は商業会議所連合会で重きをなしていた)、状況は複雑であった。又新会にも、営業税軽減を優先したい議員達は多くいたと想像される。

※ 大同倶楽部は地租を0.8%減とする以外は幹部に一任する、つまり第2次桂内閣の案を支持することとなった。ただし内閣が税制整理案を一部撤回したことについては、不穏当とする声があり、議論が沸騰した(1910年2月10日付東京朝日新聞)。

 

ちなみに8名しかいなかった無所属議員の間にも、愛媛県郡部選出の森肇は地租軽減優先、和歌山市選出の坂本弥一郎は3税廃止優先、という差異があった(1910年1月31日付読売新聞)。両者は共に中央倶楽部の結成に参加したから、同派にも市部選出議員と郡部選出議員の差異などがもちこまれたと言える(そうは見えないのなら、それは隠されていただけだという事になる)。そして又新会内にも政策の違いはあった。同派は政党ではなかったから、当然と言えば当然だが、何をもって公正とするか、興味深い差異である。それは次の通りだ。内閣が提出した宅地地価修正法案には、宅地地価は賃貸価格の10倍とするものの、それが当時の地価の20倍を超える時は20倍にとどめるという制限があったのだが、それついて、憲政本党の大熊三之助(岐阜県郡部選出)が撤廃を提案した際、又新会の高木正年は20倍でも激変するとし、郡村宅地における制限が重要だとしたのに対し、同派の西村丹治郎は、制限を撤廃することが公平だとする主張をした(『帝國議會衆議院委員會議録』第5類第5号第6回51頁。結局、貴族院で制限を市街宅地18倍、郡忖宅地7.2倍と修正したものが成立した)。制限がないと実際の負担が過剰になってしまうのか、あるいはいくら負担が大きくなっても、地価に見合うものとして受容されるべきなのか、同じ又新会でも意見が分かれていたのである(ちなみに高木も西村も憲政本党出身だが、高木の方が離党が早く、三四倶楽部を経ている。西村は岡山県郡部選出で記者出身、高木は東京郡部選出で地方議員出身)。

 

図⑩-G

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