日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党・野党再編・政界縦断(⑥⑩)~又新会の2分化と再編の挫折~

新民党・野党再編・政界縦断(⑥⑩)~又新会の2分化と再編の挫折~

当時の非政友会勢力再編に関する動きを、又新会(新民党)の視点から、まずは河野広中の伝記、『河野磐州傳』を用いて見る。1908年にさかのぼるが、同年春頃(第2次西園寺内閣期)から、大合同を志向する又新会の河野広中、島田三郎、憲政本党改革派の大石正巳が、再編に関する話をしていたようである(下巻739頁。時期について断言はされていない)。そこで河野は次のことを急務とした(同735頁。項目ごとに改行した)。

(一)地方分権を基調として、現在の政治組織を改造すること

(二)中央集権の弊を打破して、地方自治の實を擧ぐること

そして以下を当面の問題だとした。

(一)下級官吏の生活難を救はんが爲に、之れが増俸を行ふこと。

(二)宮室費を増価すること。

(三)奢侈を禁じ、勤儉を奨め、輸出入の均衡を圖ること。

(四)財政及び税制を整理し、惡税を廢減すること。

(五)宮廷の經費を節減し、宮内省の粛清を圖ること。

(六)官紀の振粛を厲行すること

河野は当時の衆議院では最左派であったが、地方分権、消極財政、税負担軽減など、現在で言えば新自由主義的な政党が唱えることを主張している。唯一、下級官僚の待遇改善が、公務員のものを含む労働組合を支持基盤とする社会民主主義政党の主張に通じる。この新民党よりも右に位置した党派は積極財政志向であり、政党はそれを支持基盤の強化に使いたいと考える存在であった(先陣を切ったのが自由党系、改進党系は部分的にそれを追い、吏党系は少し特殊で、薩長閥の主流であった軍拡路線に従う事が基本としてあった―対外強硬派であったのだから不自然な事ではないが。また吏党系は1892年に全体的に政党化されているが、こ大同倶楽部は正確には政党ではない―)。第2党の憲政本党は、優位政党を追う(すり寄るにしても出し抜くにしても)立場であるがゆえに、優位政党を真似たり、その反対を行ったり(衆議院の最左派に近くなる)、主張を大きく変化させる勢力であった(党内の非改革派、改革派の間で主流派が入れ替わるわけだが、主張が変わる理由をそこに見出す事によって、かろうじて整合性がとれているように見えていたとも言える)。

河野はまた、既成政党の弊害に関して、憲政の基礎を樹立するためには、2大政党を対立させなければならないとした。さらに、そのためには内閣を組織するに足りる、有力な政治家を中心としなければならないとした。元老を政党人とし、閥族を政党に同化させなければならないということであったのだが、具体的に河野は、山県の名を挙げた。彼を説破し、新政党の領袖とし、上のことを実行させる事を唱えたのである。この主張は、憲政本党改革派のそれと同じであった(ただし、憲政本党改革派は桂を担ごうとしていたと見られる)。島田三郎(又新会)と大石正巳(憲政本党改革派)は河野に共鳴し、島田は平田東助(山県-桂系)を通じてこれを実行しようとしたが、河野は、まず新政党の要素を充実させるべきだとした(以上同735~736頁)。新党構想を固めてから山県を担ぐ、つまり山県系に主導権を渡さないという事だと言える。つまり河野は、最も左の極に、これと最も遠い山県系を吸収しようとしたのである。これが完全に成功するなら、吸収する側にとっては矛盾は生じない(実際には内部に大きな差異が生じるだろうが)。立憲政友会について河野は、薩長閥を吸収する機会を得ながら、これに擦り寄る政党になったのだと、否定的に見ていた(同737頁)。河野の構想は、成功すれば政界の構図を変えるものであった。しかし桂以上に政党に否定的であり、桂より格上であった山県までをも対象としていた点で、実現性に乏しいものであった。成功すれば成果は大きいと思われるが、格が上の人物ほど扱いにくいという面は残っていただろう。それでもこの会合は、河野と島田の大合同の主張が、決して山県-桂系に擦り寄ろうとするものではなかった事、伊藤系と自由党系の合流に続く、もう1つの政界縦断、つまり薩長閥(の一部)と、かつての民党の系譜(の一部)の合流を目指す点で、後の桂新党と親和性があった事を示すものとして重要である。

以上のような考え、そして憲政本党改革派の角田真平が、河野、島田との新党結成に動こうと、河野に謀った事から、河野は1909年3月12日に、又新会の代議士会を開いた(同741頁)。そこで河野は、又新会を中心とする新党の結成が急務であるとした。同派を中心とするとした背景には、自派を中心にしようという意図、そしてそれによって合流反対派を抑える(合流不参加者を減らす)意図の他、まとまりを欠いていた憲政本党が、中心とはなり得ない状況にあったという事もあるのだろう。代議士会は議論の末、「主義主張ある又新會の規模を擴大し實力の發展を圖ることが時機に適した策であると云ふの議に決し」た(同上)。これは又新会が、遅くても再編の時には政党になる事を意味していた。それをストレートには謳っていない事はしかし、政党の所属となることに否定的な議員、消極的な議員が(まだ)いた事を示している。左の極として互いに主張は近いものの、組織に拘束されることを嫌う議員と受容する議員がいたのだろう。河野と島田は大政党の出身であったから、政党化にも大政党の結成にも、拒否感はなかったはずだ。彼らは無所属になりたかったわけではなく、党内対立の結果離党し、とりあえず無所属(無所属議員による会派の所属)でいるしかなかったのである。このような立場、志向の違いは、政策の違いよりも深刻だったのかも知れない。

『河野磐州傳』によれば、1909年3月、大同倶楽部参加反対派が代議士会に付議した綱領(案)等の中の、第2次桂内閣寄りの勢力を排除するための文言に、容認派が反対した(下巻742~743頁)。同月17日の代議士会で承認を得た、実際の宣言、綱領は下の通りである(同744~745頁)。

宣 言

帝國議會解説以來、茲に二十年を閲すること少しとなさず。而も未た健全なる國論を發揮して之を政治の上に實施すること能はず。内外の政務は未だ擧らずして政会は早く既に腐敗の非を呈し、天下將に漸く議會を輕んずるに至らんとす。是れ實に國民を本とし、國家を基とする眞個有力なる大政黨の存在を缺ぐに職由せずんばあらず。豈に慨嘆に勝ふべけんや我國今や空前無比の大戦に勝ちて内に外に未曾有の大發展をなすべきの時なり。政界の萎靡不振此の如くんば、何を以てか興隆の國運に副ひ開進の鴻謨を翼賛することを得ん。吾人此に感ずるあり。大に同志を糾合して一大政黨を組織し、正義を執り、公道を履み健全なる國民の與論を發揮して、官僚政治を打破し、責任内閣の實を擧げ、當面の急務先づ惡税を廢止し、進んで軍備偏重の弊を矯め、以て憲政運用の妙を效し、以て國運の進暢に資せんと欲す。茲に綱領を揚げて普く講習に宣言す。苟も此綱領を是認して、衷心國家の爲めに竭さんと欲する者は、悉く是れ吾人の良友なり。天下の公事固より親疎の差別あるなし。同感の士冀くは奮つて來り會せよ

綱 領

一 立憲思想の普及を圖り、責任内閣の實を擧げんことを期す。

一 外交を振作して、國利を發展せんことを期す。

一 清國保全韓国保護の實を擧げて、戦勝の効果を完全に収得せんことを期す。

一 制度を更新し、紀綱を振肅して、行政改革の實を擧げんことを期す。

一 政費の分配を矯正し、税制を釐革し、財政整理の實を擧げんことを期す。

一 殖産興業を奬勵し、運輸貿易機關を改善して、浮力を増進せんことを期す。

一 教育制度を改革し、併せて風教維持の道を講じ、強健なる國民思想を養成せんことを期す。

小合同派(大同俱楽部参加反対派)がこだわっていたのは官僚政治の打破、責任内閣の実を挙げる(議院内閣制への前進)という事であり、これらは彼らの政綱(案)のトップに掲げられていた。それは事実上大同倶楽部等を排除する事を意味したから、大合同派にとっては受け入れがたいものであった。結局責任内閣は綱領に、官僚政治の打破は宣言のほうに入ったのである。この際尾崎行雄が仲裁に入ったようだが、それでも大きく分けて見れば、小合同派が優勢であったと思われる。ただし小合同派の政綱(案)にあった3税廃止については、「税制を釐革し」という具体性のない表現に留められた。

再編のための各派交渉委員には、大合同派の河野、島田、大竹、小川、中立派の桜井が選ばれた(同745頁)。河野と島田が憲政本党、大竹、小川が戊申倶楽部と交渉することとなり、大同倶楽部には彼らが個人として交渉することとなった(3月19日付の時事新報によれば、必ずしも拒絶はしないが、公然と交渉はしないという申し合わせがなされた―櫻井良樹『大正政治史の出発』69頁―)。これは妥協策なのか、単にやりたい者がやれば良いという事なのか、筆者は確認できていない。ともかく交渉は難航した。憲政本党非改革派は第2次桂内閣寄りの勢力を排除することを求め(※)、憲政本党改革派、大同倶楽部、戊申倶楽部は、又新会内の大合同派が問題とした官僚政治の打破を主張する文言を、やはり問題視したからである(同745頁。撤回を求めている。3月21日付の東京朝日新聞によれば、大同倶楽部は宣言のほうを撤回するよう要求した)。ただし、「政界最近史」(『政機線上の人物』)によれば大同倶楽部が、抽象的な官僚打破ではなく、軍備偏重を矯すという事について、将来の政策に支障をきたすとして、拒んだのだという(172頁)。

※ 同745頁。また憲政本党第3巻第7号11頁「新政党組織の計画」は、同党が新政党に希望することは単に多数者の集団となることではなく、主義綱領を等しくするものの結合であるとし、大同倶楽部を排除することは希望ではなく、条件だとしている。『立憲民政党史』上巻207頁によれば、個人での参加も拒否していた。

 

大同、戊申、憲政本党改革派と、憲政本党非改革派が一致し得ないことから、河野は3月20日に、新党結成の断念を、その準備委員、又新会幹事を辞することと共に表明した(下巻746頁。なお、準備委員は河野、島田、大竹、小川、山口、坂本、桜井、鈴木、高木正年)であった。憲政本党の不統一によって、再編・新党結成の主導権が同党から又新会に移ったという面がある。しかし同派もまとまれなかったし、第2会派(非政友会第1会派)の憲政本党がまとまっていない事は、又新会の大合同派の意欲をも挫折させたのだ。確かに憲政本党はおよそ半年後(1909年10月)、非改革派優位で表面的にはまとまった。しかしもはや、憲政本党非改革派と又新会小合同派の距離、憲政本党改革派と又新会大合同派の距離の方が事実上、両党派の内部の2派の距離よりも近くなっていた。そこには非優位政党の多くが迫られる、優位政党(優位勢力)に寄るか、対抗するかという選択があった。これは今日でも見られるものであり、1党優位の国の宿命のようなものである(当時の日本では、まだまだ薩長閥が優位勢力であり、衆議院では立憲政友会が優位政党であったと言える。だから現在よりもややこしい。加えて、薩長閥が一つの政治団体のようなものではない事で、その複雑さは増す。すでに薩長閥の中の伊藤系が、自由党系と合流して立憲政友会を結成していた)。

又新会では、3月22日の代議士会で最終的な方針を協議した。しかしそこで2派への分化が避けられない状況となった。小合同派の11名と、交渉を中止して現状を維持すべきだとする花井ら15名に分かれ、後者の主張が通ったのだ。それでも11名は、綱領、宣言を維持すべきだと主張した。この11名は後述する十一人組であるが(3月24日付の東京朝日新聞でも氏名が挙げられている)、15名のほうが誰であるかは分からない。大合同派が積極的に交渉中止を主張するとは考えにくい。うまくいかないから少し様子を見ようという事はあり得るが、中止を積極的に唱えるとは考えにくい。だからこの15名は大合同派とはあまり、あるいはほとんど重なっていないと思うのだが、どうであれ、又新会は当時44議席であったから、小合同派が少数派として敗北したに近い状況であった事は間違い。憲政本党が小合同に傾き、又新会が先送りか大合同(少なくとも小合同が少数派)という不一致は明確であった。当時の衆議院の、中央よりも左の部分にねじれが見られたのである(最左派であるはずの又新会が、再編について憲政本党よりも右になり得た)。左側は小合同すら難しい状況になったのだ。

又新会の小合同派であり、「硬派」とされていた入江、浜田、西村、村松、蔵原、小寺、坂本、佐々木、鈴木力は1909年5月11日、又新会の幹部が、議会報告書に新党結成に関する顛末を漏らしたことに反発し、次のような内容の檄文を発表した。宣言に官僚攻撃と偏武避難があったために官僚派が賛同せず、現状を維持するに至った。もし衆議院議員を多く集める事を急いで、官僚等の套局に投じるなら(官僚党を覆うものになるという事か)、それは政友会をとがめながら、かえって政友会を真似ることになる(櫻井良樹、波多野勝「又新会の成立と崩壊―付、第26帝国議会又新会代議士会会議録―」17頁-5月12日付時事新報-)。また宣言は大合同を野合とし、小さな勢力であっても「民族精神及社會各般の勢力の後援を俟つ」とした。そこにはやはり、立憲政友会への反発が見える。同党について宣言は次のようにも述べている。衆議院の過半数を上回っているにもかかわらず第2次桂内閣と争わず、対立のある問題を同内閣との内談で葬り(貴族院では内閣支持派が多数、衆議院では立憲政友会が多数であったから、他の勢力の主張は通らない)、末節の小さな要求を満たしている(5月12日付東京朝日新聞。鈴木寅彦、佐野、三輪、高木、小泉、卜部、桜井、橋本、梅原、金尾も同一行動に出るはずだとしている。このうち佐野、三輪、金尾以外は、後述の十六人組―中立派―である―高木は苗字しか記されていなかったが、高木正年は小合同派であったから、益太郎のほうだと考えられる―)。※

※ 又新会内の大合同派、中立派、小合同派については本章新民党野党再編(⑩)~又新会の分裂、無名会の結成、小合同へ~で述べる。

 

その後も、再編を模索する動きが完全に途絶えたわけではなかった。憲政本党改革派、大同倶楽部、戊申倶楽部の議員達による、新党結成の模索は続いた。しかし日糖事件(本章⑥参照)で逮捕者を出した勢力(憲政本党改革派、大同倶楽部)と、又新会は距離を置いた。置かざるを得なかったと言った方が良いのかも知れない(1909年6月4日付の東京朝日新聞は、憲政本党、大同倶楽部、戊申倶楽部の6月3日の会合に、又新会の新政党論者が来なかったことについて、日糖事件で被告人を出した政派と会談するのを好まなかったこともあるとしている)。同志研究会系がとってきた姿勢を考えれば、これは自然な事である。こうして大合同はほぼ不可能となるに至った。

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