日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党(⑨)~薩長閥の社会政策と又新会の左派的な性格~

新民党(⑨)~薩長閥の社会政策と又新会の左派的な性格~

第2次桂内閣は、社会政策と弾圧というアメとムチで社会主義運動を抑えようとしていた。ムチは弾圧であったが、「アメ」とは、労働者を保護するために工場法案であった。又新会の高木正年はこの法案の撤回について、政府が議会、国民を翻弄し、顧みることなく撤回したと批判した(『帝国議会衆議院議事速記録』二四243頁)。高木は工業が重要だからこそ、職工、徒弟の保護が必要だとした。また不完全な法案を修正するのが議会の職務だと述べている。後者は議会軽視を批判しているようにも感じられる。同派からは具体的な指摘、批判もなされている。例えば、就業時間等の重要な点を命令規定、つまり内閣に委任している点、未成年者の教育を工場主に義務付けていない点などを花井卓蔵が問題にしている(同第3回9~11頁。また花井は法案の夜業禁止を評価し、絶対禁止にまで持っていくことを主張している―同13頁-)。また卜部喜太郎は、工場主の機嫌を取りすぎたあいまいな法律だと批判している(同第4回18頁)。又新会は当時の議会最左派らしく、社会政策に関しても、各党派の中では進歩的な存在であったと言えよう。憲政本党も根本的に修正しない限り反対だという姿勢であったようだ(1909年12月9日付東京朝日新聞)が、態度を明確にしないまま撤回となった。なお、「アメ」とし得る者には他に、多少の貧困対策もあった(本章1列の関係2大民党制(⑫)~立憲政友会より桂内閣の方が進歩的であるという面~参照)。アメとして社会政策を進める薩長閥側と、議会の最左派とは当然ながら理念において一致し得ない。しかし最左派と言っても、当時の衆議院の最左派は自由主義である。社会政策を強く求めていたわけではない。議会ができてまだ20年も経っていなかった当時、両者が社会政策それ自体を、そしてさらには、本来順序は逆だが、その背景となる理念(特定の社会政策を掲げる、その理由)を近づける可能性は、まだあった。

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