日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
実業派の動き(⑨)~揺れ続ける戊申倶楽部~

実業派の動き(⑨)~揺れ続ける戊申倶楽部~

戊申倶楽部も相変わらず揺れていた。1909年10月3日付の読売新聞は、戊申倶楽部の中野、西村ら「商工組」が、同派の牛耳を執る(記事では「採れる」)仙石との間に、感情的な対立があることから、同派を脱して無所属となると言う者があるとしている。実際に両者が脱することはなかったが、再編においては仙石と道を違えている(中野とに西村は無所属、仙石は立憲国民党を結成)。同派では12月20日、7名の幹事が選出された。中野、仙石、中村、肥田、江間、加藤、片岡である。片岡は、幹事の中に議員以外の職業のために多忙な者がいたことから、3名の補助幹事を選挙するこを発議した。この3名を専ら党務処理に充てるということであった(1909年12月22日付東京朝日新聞。戊申倶楽部が政党として結成されたという事を筆者は確認していないが、正確には政党ではなくても、内外から政党のように扱われ、「党務」という言葉が使われる事があったのだろう。そもそも立憲政友会にも、そのような面がある)。そしてそれを機に、幹事辞任を申し出る者が続出したとしている。12月21日付の読売新聞は、片岡が高齢のために煩務に耐えられないと述べたことを報じている。また、片岡が上の案を出した背景として、中安が、院内の重要委員を役員の兼務とせず、一般代議士に分配するべきだとしたことも伝えている(中安は片岡と同じく再編・新党結成積極派)。戊申倶楽部は、内部からのこれらの提案について、またそのような提案が出される状況について、解答を導き出すことができなかった。かつての中立実業派と同じく、一体性がなかったためだと言えるが、その一体性の欠如には差異が見られる。戊申倶楽部には、野党的な立場になろうとも、実業家層の利害を熱心に代弁する中野らの他、議員にはなったものの、本職を優先する他の一部の実業派、そして党派の再編に熱心な、山県-桂系に連なる議員達が混在していた。本職を優先する議員の中には周囲に出馬を促された者もいたであろうが、それを含めて、議員になる事で、当時は現在ほど高くなかったとは言え、その地位の力、さらに有力者とのパイプが強化される事で本業が有利になる、地元が有利になるという狙いがあったのだろう。このように戊申俱楽部には、異なる明確な志向を持っていた議員達が同居していたと見られる。それまでの中立実業派では、ごく限られた一部の法案について、そして2大政党の合流に熱心であった山下倶楽部の平岡浩太郎などを除けば、つまりわずかな例外を除いて、政策や再編に積極的であるという傾向は見られなかった(しかも平岡個人は実業派とはし難い議員であった。福岡玄洋社、つまり国権派の出身であり、国民協会、つまり吏党系から転身した人物であった)。異なる考えを持っているためにまとまらないのと、ただまとまっていないのでは、当然ながら全然違う。

戊申倶楽部の内部分化は、政策上のものとしても見られた。それはやはり税制の問題についてであった。地租軽減を謳い、3税廃止には触れていない富田幸次郎の宣言書案に異論が出たのである(1910年1月22日付東京朝日新聞)。確かに当時は米価が下がっており、地租軽減の要求が高まっていたのだが、それでもこれは、商業会議所派等とは乖離した内容であったはずだ。戊申俱楽部もこれまでの中立実業派と同様に、実業家中心の会派という面と共に、実業派と、薩長閥(伊藤が立憲政友会を結成して以降は、その中でも山県-桂系)に近い議員、その他の無所属の混合物という面を持っていたわけだが、実業派の主張が明確になったことで、主にそれ以外の勢力の議員達との差異が、より明確になったのだと言える。なお富田は、かつて土佐派の自由党に属した岡崎賢次(同志研究会)、楠目玄(会派自由党→立憲政友会)らと同じく革新倶楽部員であり(1903年3月19日付東京朝日新聞。高知県での組織)、憲政本党改革派の大石正巳と同じく、土佐倶楽部に推されて(1908年4月30日付東京朝日新聞)、第10回総選挙で当選していた。後に立憲国民党、立憲同志会の結成に参加する。

戊申倶楽部の清水市太郎は、官吏の増俸に反対していた。戦時の増税の永久化の面が強すぎるという見方から、第2次桂内閣の税制整理にも反対しており、同時に地租軽減を主張していた(『帝国議会衆議院議事速記録』二四115頁~120頁)。清水は愛知県郡部の選出で、元判事試補、帝国大学講師。弁護士であり実業家ではなかった。後に立憲政友会入りする。富田と同じく、3税廃止等よりも地租軽減を重視していたのだろう(どちらを優先していても、減税を求めると言う点では野党的な議員だと言える)。1910年1月14日付の読売新聞は、戊申倶楽部では地租軽減賛成者が多く、同時に3税廃止を求める事が難しい事から、旗色を鮮明にしないと見ている。

富田の宣言書案に反発する議員達がいたため延期となった戊申倶楽部の大会は、1910年1月22日に開かれた(1月23日付東京朝日新聞)。中野、中安の一派は申し合わせの上、出席を見合わせた。大会では官吏増俸等の歳出を抑える事で、耕地の地租1%減を実現させる事が、可決された。同派が、より準与党の色が濃い大同倶楽部(0.8%。※)よりも大幅な引き下げを唱えるのは不自然ではないが、中立実業派としては印象的だ。結局、宅地も軽減の対象とすべきだという意見もあったため、さらに調査をする事となった。そしてこの大会では、国債の信用は回復したものの、税制整理がまだ行われておらず、依然として巨額の高利国債を負っていることを遺憾とし、国富発展のための政策が、専ら眼前の事象に意を用いたものになっているという批判を含む宣言書が可決された。さらに、諸税の適度な軽減、地価修正、国債の整理による負担の軽減、交通機関の整備、産業の奨励、関税の改正が決議され、学制の改革を期することが政綱に追加された。中野らを除いても、戊申倶楽部が消極財政・税負担軽減志向であったのだと分かる。しかしこのことを報じた1月23日付の東京朝日新聞は、中野らの一派が、地租と3税に関して中村、肥田と根本から意見が異なるとしている。中村は長野県郡部の選出で、大成会、立憲革新党、憲政本党等に属してきた。肥田は宮崎県郡部の選出で、国民協会の出身である。この点で中野らとは異質だ(中野はかつて香川1区選出―郡のみで形成されていた―の立憲改進党や憲政本党の所属議員であったが、当時は商業会議所を背負って東京市から選出されていた)。

※大同倶楽部は地租を0.8%減とする以外は、幹部に一任する、つまり第2次桂内閣の案を支持することとなった。ただし内閣が税制整理案を一部撤回したことについては、不穏当とする声があり、議論が沸騰した(1910年2月10日付東京朝日新聞)。

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