日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・野党再編(⑨)~優位勢力は薩長閥か自由党系か~

1列の関係・野党再編(⑨)~優位勢力は薩長閥か自由党系か~

憲政本党改革派の武富時敏は、立憲政友会が地租軽減を実現させたことについては評価しつつ、そのために他の廃減税が犠牲になっているという事を指摘した(『帝国議会衆議院議事速記録』二四143頁)。第2党の要人が、政友会内閣期でもないのに、内閣の法案ではなく、立憲政友会の法案であるかのように語っている点が重要である。又新会の早速と高木正年も、第2次桂内閣の立憲政友会への譲歩を、具体的に(前者が所得税、後者が通行税について)批判している(同145、148頁。以上について、櫻井良樹氏が指摘している-『大正政治史の出発』80-81頁-)。第2次桂内閣が立憲政友会に譲歩したのだから、不思議な事ではないのだが、これこそが重要で、政治を動かす存在、つまり野党が対峙する相手が、山県-桂系中心の内閣期であっても、立憲政友会になりつつあったという事である。尾崎行雄はこの時代の憲政本党、非政友会勢力の再編について、次の通り振り返っている(『尾崎咢堂全集』第11巻453頁)。

この時、憲政本黨は、政友會に壓せられて、黨勢日に日に衰へつゝあつたので、こゝに局面を轉換するため、政黨合同の議が起つたのであるが、これには二派あつた。同じ反感といつても、藩閥官僚の専恣に對する反感と、政友會の横暴に對する反感と、二つあつたので、それに從つて、政黨合同運動も、二つに分れたのである。

移行期であるだけに、山県-桂系と立憲政友会のどちらを優位勢力だと捉えるのか、見方が分かれざるを得ず、最も右の極(吏党系)と最も左の極(新民党-と改進党系の左派-)が、ますます相容れない存在となっていたのだ。

薩長閥と立憲政友会(自由党系)の格差が大きければ、優位勢力の薩長閥に立憲政友会と大同倶楽部がぶら下がり、他にもぶら下がろうとする党派が出てくるという、自民党中心の戦後日本(特に民主党政権終焉後)に似た形となる(制度などは、この2つの時代で大きく異なっていても)。しかしその格差が小さくなり、立憲政友会が薩長閥中心の政権を揺さぶる力を強めれば、それは次の体制への移行期に入った事を示す。それが党派の再編に影響を与えないはずがなく、実際に形になったのが、非政友会勢力の2分化だ。そして立憲政友会が薩長閥を翻弄するようになれば、同党の政権の定着(長期政権となるか、何度も政権を奪還するかは別として)、地方における与党化(政権党になれば府県知事を自ら決められる)、影響力の強化が決定的なものとなる。そうなれば、非政友会勢力が大同団結する可能性は高まるものの、立憲政友会につく方が(あるいは入党した方が)有利だろうと、大同団結からこぼれる者も出てくる。

優位政党の力の源泉は、予算案や他の法案の拒否権を持つ衆議院において、過半数(を形成できる)の議席を持っている事である(大日本帝国憲法では、予算案が成立しなかった場合、前年度のものを再度執行する事になる。しかしそれでも政権にとって痛手ではあった。また過半数の議席を持っているという事には、当時は制限選挙であったとは言え、唯一の、国民に選び取られた勢力であるという正当性もあった―有権者がまだ非常に未熟だと広く認められるのでない限り―)。そしてその力によって優位政党の影響力が増せば、今度は逆に、その影響力を源泉として、衆議院の力が強まるというものであった。確かに大日本帝国憲法下の議会、衆議院の力は、日本国憲法下のそれよりも弱かったが、優位政党が与党になれば、その力は行政府にも及ぶ。ただしその力を発揮し、存在意義を示すには、薩長閥が行っていた有力者の談合ではない政治が必要になる(これが悪いと言うのではなく、それが必要とされる時代もあったが、やがて進歩、民主化も求められる)。談合である限りは第2次西園寺内閣のように、薩長閥(の一部)によって制約も強く受ける。当時の制度上は談合を脱するのは難しかったわけだが(※)、それでも政党が影響力を強めていけば、政党に政権を担当させるしかなくなり、やがてイギリスのように事実上の議院内閣制となり、それが定着するという事,が考えられた。だから立憲政友会にある程度の力がついたところで(その基準をどの程度とするかという、時期的なものともなり得る見方の差異は生じるとしても)、そのライバルとなる政党の強化、安定もそろそろ必要になってくるというものであった。そのためには、合理的な対立軸を巡る議論と、選挙における選択肢の提示が重要であった(それを、この当時よりもう少し先だとする見方はあるとしても、少なくともそう遠くない未来には)。そうでなければ、部分的な変化は起こっても、前近代的な政治集団による談合とさほど変わらない。だからこの当時の衆議院は、つまり各党派は、政策を軸とした再編を、時代に求められていたのだと言える。

※ 憲政党内閣のように、薩長閥との談合の面が小さい政権をつくれたとしても(第5章⑩参照)、薩長閥は最低でも拒否権は行使できたし、この当時には軍部大臣現役武官制になっていたため(現役の軍人しか、陸軍大臣、海軍大臣になれない。第6章⑦参照)、軍部大臣を辞任させて後継不在の状態にする、つまり内閣の存続を不可能にするという事が非常にやりやすくなった。影響下にある(と言うよりも自分達と一体的なものである)軍部を使えば、薩長閥は簡単に内閣を倒す事ができた。そしてその時、後継を決めるのは薩長閥であった。

Translate »