日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振・実業派の動き・野党再編(⑩)~戊申倶楽部の再編への動き~

(準)与党の不振・実業派の動き・野党再編(⑩)~戊申倶楽部の再編への動き~

戊申倶楽部の一部の議員達は、淡々と再編への動きを進めていた(例えば1910年2月25日付東京朝日新聞。同派の肥田景之と中村弥六が又新会の河野、島田、大竹、細野に、戊申倶楽部と大同倶楽部の合流に加わるように申し込んだ事、両者が無所属の川真田徳三郎と会見した事を伝えている。又新会の小合同派等が合流に参加しないことは確実であったから、彼らは又新会の大合同派を引き抜こうとしたのだと言える。川真田(元立憲改進党、溜池倶楽部、立憲政友会、大同倶楽部)は他の無所属議員と、戊申倶楽部と大同倶楽部の合流に参加するか協議をした。記事は川真田と松尾寅三(元立憲政友会)が反対し、森肇(立憲政友会に属していた事があるが、後の政友本党→立憲民政党→立憲政友会→昭和会の森肇とは別人)、永野静雄(官僚出身、第9回総選挙に憲政本党から出馬し落選、1909年7月の佐賀郡部の補欠選挙-憲政本党議員が日糖事件で有罪となった事による―で当選)、石田平吉の3名が結党式に参加することになった(石田は猶興会出身であったが戊申俱楽部の結成に参加し、1909年9月に松尾と共に同派を離脱している)。ただし彼らは、(中央倶楽部結成を)主義政見のない「無色透明の大団結」をするものと捉え、もし官僚党組織の本意が明らかになれば参加しないという見方をしている。この3名は中央倶楽部の結成に参加する。戊申俱楽部における再編の動きの中心は、中安信三郎(1919年に大日本国粋会を結成)と千早正次郎であったようだ。

戊申倶楽部の山県-桂系、あるいはそれに近い議員達は、自らと近い大同倶楽部とまずは合流し、他の勢力、あるいはその離脱者達を糾合する方針を採った(1910年2月27日付東京朝日新聞。最も有効な運動をした人物として、中安と千早、そして茶話会貴族院議員の関清英に近い、無所属の永野静雄が挙げられている)。大合同を一旦はあきらめ、まずは自らと近い勢力と合流し、さらに他の勢力を吸収するという、又新会にも見られた構想を、同派とは反対に右側から、自派分裂のリスクもある中で、戊申俱楽部は実行に移す事にしたのである。そもそも、山県-桂系では山県が鼎立を志向しており(自由党系、改進党系、吏党系の分立を維持し、1つを突出させない考え)、大同倶楽部の事実上の指導者となっていた大浦兼武らも同様であったと考えられる。だから大同倶楽部と戊申倶楽部には、それでも大政党(の所属)になりたいという議員もいれば、鼎立構想の実現となる小合同(大同倶楽部と戊申倶楽部の合流)を志向する議員も、少なからずいたと考えられる。なお、桂太郎は立憲政友会に対して、大同倶楽部等の再編構想に関与していない事を複数回述べている(例えば1909年4月7日付-『原敬日記』第3巻291~292頁-。桂が野田卯太郎に語ったのを原敬が聞き、記している)。これが事実であろうとなかろうと、立憲政友会を刺激して、関係を悪くすることを避けようとしていたのは確かだ。

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