日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・1党優位の傾向(⑫)~立憲政友会の横暴/残されている記名投票の結果~

1列の関係・1党優位の傾向(⑫)~立憲政友会の横暴/残されている記名投票の結果~

第27回帝国議会期の各会派、無所属議員の立場を知る手掛かりとなる、記名投票の採決が2つある。1つは、立憲国民党の守屋此助の質問について、立憲政友会の長晴登が、質問主意書を提出しないで質問することが規則に背いているとして出した、守屋が演壇に立つことを差し止める動議の採決である(『帝国議会衆議院議事速記録』二五147~150頁。守屋は予算員会の委員であったが、予算に関する質問をしていた)。立憲国民党の卜部、無所属の加瀬という、守屋と同じ又新会出身の2名は、問題ないとする見方を示した。憲政本党出身の立憲国民党所属議員であった坂口仁一郎は、議案に関する質問であるために問題ないという考えから、採決をすべきではないとした。さらに長の主張を、議員の権限を自ら縮小するもの、違法なものだとした。守屋は質問が問題なら発言とする姿勢を示したが、採決は行われた。169対139で可決されたのだが、立憲国民、旧又新会残留派系が反対した他、中央倶楽部51名中の、29名が反対した。賛成者をだしていない中央倶楽部は反対したということになるが、これは他の勢力と同じく、立憲政友会の横暴に対する抵抗であったのだろう。立憲政友会以外の賛成者は戊申倶楽部解散後無所属となっていた岩下だけであった。

伏見岳人氏は、守屋と長の一件などの背景として、政府と立憲政友会による予算交渉会の制度化によって、予算委員会での審議が形式的なものに変質したことがあると指摘している(伏見岳人『近代日本の予算政治 1900-1914 桂太郎の政治指導』199~200頁。第27議会において立憲国民党が、立憲政友会主導で審議が行われる予算委員会よりも本会議で抵抗する姿勢を採り、立憲政友会が反発している。具体的には武冨が編成替えをするため、予算案を政府に戻すべきだとする動議を提出→否決)。山県-桂系中心の内閣の時には、内閣が立憲政友会と事前に交渉、妥協してから予算案を提出する。立憲政友会中心の内閣の時には、山県-桂系の意向を無視するわけにはいかないものの、立憲政友会の予算案が内閣の予算案となる。そうなれば、他の会派(特に吏党系以外)の主張は極度に反映され難くなる。野党なのだから仕方がないといえばそれまでだが、立憲政友会の了解を得た予算案が、成立を約束されたとも言える状況で議会に現れ、山県-桂系と立憲政友会による政権のたらい回しが続き、衆議院の総選挙は政友会内閣の時に行われたのである(つまり同党に非常に有利)から、非政友会勢力が最も批判的に見る対象が、立憲政友会になっても何も不思議ではない。立憲政友会が衆議院の過半数を回復した頃から、他の党派が同党の横暴さを問題にするようになった(それは当然、非政友会再編のエネルギーとなる)。貴族院では確かに、山県-桂系(と近い勢力)が多数派であった。しかし予算案については衆議院に先議権があり、貴族院は正当な理由がない限り、むやみに反対派はしにくい。あるいは反対しても、第4次伊藤内閣期を見ても分かるように(第6章⑮、⑯参照)、政府を相手に徹底抗戦をしにくい性格を持っていた。以上から、立憲政友会が予算案、法案の内容、成立、不成立を決定する権限を持っていたといえるのである。これは伏見氏が当時の衆議院における議論を紹介して述べていることでもあるが(同126~127頁)、少数派であった他の会派は、もちろん予算案、法律案の成立、不成立、あるいは修正を、立憲政友会に頼らずには実現できなかったばかりか、予算案に関しては制度上、増額修正を提案することすらできなかった(立憲政友会は政権を取れば、自由にとは言えなくても、事実上予算を編成することができた)。伏見氏は、立憲政友会が第27議会において、鉄道に関する建議の主体を自分たちで独占しようとする動きを見せ始めたことを指摘している(同204~207頁)。『大国民』は社説において。立憲政友会が、他党が提出した鉄道案と同一のものを後から提出し、他党の案を否決、自党の案を可決させたことを例に挙げ、同党を批判している(同204~207頁-1911年4月1日付5~7頁-)。非政友会勢力の共通の、最大の敵が、立憲政友会になっても不思議ではないことを、改めて実感させられるのである。

その『大国民』では、立憲国民党の河野や武富が見解をのべている。河野は、内閣改造によって立憲政友会が2、3の領袖が入閣するにとどまると見ていて、武富はそれすら疑問視し、立憲政友会が第2次桂内閣に利用されているに過ぎないという見方をしている(1911年4月1日納本5~7頁)。これはその後の展開を見ても分かるように、楽観的な見方であった。このような性格も、権力志向が非常に強い立憲政友会と他の党派との間に、力の差を生じさせていたのだろう。『大国民』には犬養の見解も記されている。犬養は、見返りの無い協力は考えにくい事から、桂総理が立憲政友会に内閣を明け渡すと見ている(連合内閣のようなゴタゴタするものは避けると見ている)。桂と立憲政友会が喧嘩別れする事はないとしている。つまり事態を楽観視していない。そして政権が立憲政友会に明け渡された場合、さらに立憲政友会中心の内閣が選挙干渉をした場合、立憲国民党が不利になり、窮境に陥るという見方をしつつも、立憲政友会が政権を譲られる事は進歩であり、引き受けるべきだとしている。ただし同時に、立憲政友会の内閣を、桂一派を大家とする借家住まいにすぎないとしている。実際には、次の第2次西園寺政友会内閣は、「借家住まい」以上のものとなる。しかしそれゆえに、山県-桂系に(再び)倒されるのである。犬養は薩長閥(山県-桂系)と立憲政友会が対立関係になる事を望んでいたはずだが、冷静に状況を見ていたようだ。ただ、「借家住まい」に満足できなくなった時、立憲政友会が自分達(立憲国民党)と共に立ち上がってくれるという期待もあったのだと想像する。そのような共闘は第1次護憲運動で一時的に見られたが、立憲政友会が立憲国民党と連立を組んだりするような事は一切なかった(立憲政友会が真っ二つに割れて第2党に転落する、第2次護憲運動の時期までは)。

さて、もう一つの記名投票の結果は3税廃止案である(『帝国議会衆議院議事速記録』二五216~217頁。法案は否決された)。1909年3月1日に戊申倶楽部から立憲政友会に移った高橋政右衛門は、呉服商でありながら反対している。本会で自らその事に触れ、次のような理由を挙げている(同214~215頁)。未製品にも課税されている事から、その分の戻し税が必要である。廃止となると、施行までに買い控えが起こる。しかし高橋が、戻し税付きの廃止や、段階的な廃止を内容とする修正案を出すことはなかった。3税について一括で採決されたこともあって、賛成85、反対171と、投票総数、賛成票が少なかった。立憲国民党は投票していない議員が多いものの賛成したと言える(戊申倶楽部出身者では、肥田が賛成した以外、誰も投票していない)、旧又新会残留派系も同様であった(石橋、早速、橋本、堀谷、細野、大西、大竹、加瀬、小泉、関口の、16名中10名が賛成)。さらに、反対派であった中央倶楽部(当時51議席)から、戊申倶楽部出身の中安、村田、丸山、小橋(大同倶楽部を脱して戊申倶楽部結成に参加)、斎藤、大同倶楽部出身の須藤、中央倶楽部の前に会派に属した事がない阪本、立憲政友会出身の森肇が賛成に回った。須藤と森以外は市部(北海道の区部を含める)の選出であり、大同倶楽部出身者の割合は小さい。戊申倶楽部から無所属となった議員では中野武営が賛成した以外、誰も投票していない(西村治兵衛は死去している)。

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