日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1党優位の傾向(⑬)~新与党の試練~

1党優位の傾向(⑬)~新与党の試練~

辛亥革命に関し第2次西園寺内閣は、清を(列強と共に)立憲君主制に着地させる事を試みたが、イギリスが状況を見て清朝の存続にこだわらない姿勢を採ったため、清が倒れる様子を見ていることしかできなくなった。この第2次西園寺内閣の試みは、日本が満州における権益を維持して影響力を強められるように、清、そして清を取り巻く状況を持っていこうとしたもので、その点では桂と異なっていたわけではない。しかし政友会内閣と海軍は他国に警戒されぬよう陸軍が求めた派兵を抑えた。これも陸軍の、政友会内閣への対立感情を強めた。

第28回帝国議会において西園寺政友会内閣は、対支(対中国)政策が不明確だとする野党の追及を受けた。この構図を現在に当てはめると、下のようになる。その前に確認しておくと、立憲政友会は優位政党ではあっても、当時の制度、段階では、やっと政権を担えるようになって日が浅かった。以下はそれを踏まえている

・民主党系の政権が誕生し、外交がうまくいかない状況になる。

・それまでの万年与党自民党が、それを冷ややかに見る。

・一方で第3極の政党が民主党系の政権の手ぬるさを批判する。

自民党が薩長閥、民主党系が自由党系(立憲政友会)、第3極が他の党派にあたるという事である。ただし実際には自民党政権は、薩長閥のように外交で成果を上げる事は少ない。

また、改進党系、吏党系、新民党という左右に分かれるような勢力を、まとめて今の第3極に当てはめて見るのは、さすがに乱暴かも知れない。しかしこれらの勢力は、対外強硬路線で一致し得た。この点では財政等で違いがあっても、国防や緊急事態条項について非常に積極的な、現在の第3極(日本維新の会と国民民主党)と似ているとも言える。自由党系の立憲政友会も、改進党系の立憲国民党も、現在では自由民主党なのでややこしいが、そんなことを言えば、吏党系も新民党系も、いや薩長閥も含めて、今ではほぼ全てが自民党になっている(少なくとも、自民党中心の癒着構造の中にある)。重要なのは、現実的であり、戦後の自民党のような存在でもあった戦前の自由党系も、最初は万年野党(民党)から出発しており、伊藤系等のごく一部を除いて、政権運営の経験が乏しかったことである。。そして一時的に下野した優位政党(薩長閥は下野したとまでは言えないが)はそれを見下し、第3党以下は、小さいがゆえに明確な立場から、批判をするのである。政友会内閣の外交は、山県-桂系から見れば、穏健過ぎるという事以上に、経験不足とそれによる消極姿勢、さらに何より、選挙優先の消極姿勢に見えた(票にならない問題に関心が薄そうに見えた)のである(国外における権益の確保、維持は財界にとっても有利な事ではあり得たが、彼らが求めていた消極財政と矛盾するし、リスクもあった。この事などから当時は優先順位が低かった)。

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