日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
選挙制度の影響・1党優位の傾向・新民党(⑭)~優位政党が望む小選挙区制~

選挙制度の影響・1党優位の傾向・新民党(⑭)~優位政党が望む小選挙区制~

衆議院への、各選挙区で1位となった候補しか当選しない小選挙区制の再導入は、当然ながら優位政党である立憲政友会に有利であった(法案には2人区もあったが、以前の小選挙区制と同様に連記制であった)。だから同党が、(同党以外も含めた)政党というものの地盤を強化するためだとしても、党利党略だと受け取られていた面が大きい。政党の強化というのは、原内務大臣は大選挙区制では同じ政党の候補者同士も争うので費用がかかるとしているが(『帝国議会衆議院議事速記録』二六191頁)、同じ政党の候補者同士が戦う事には、政党の存在感を低下させる面もある(この当時採られていた大選挙区制では、郡部の定数が多く-市部は大都市を除き、1人区、つまり小選挙区であった-、立憲政友会以外の党派も、複数の候補者を立てていた)。

野党が小選挙区制反対の理由としたのは、選挙区ごとの有権者が減るため、競争が激しくなり過ぎて、不正の増加を招く事(先進国では戸別訪問を否定的に捉えない傾向あがるが、1党優位の日本では、不正の温床になると捉えられる事、それも含めて、優位政党に有利になる事から、今なお否定的に見られがちだ)、衆議院が多数派の代表で占められる事(少数派の代表が選出されない。大選挙区制では知識人等の議会進出が増えたが、それが困難になる)、多数派の圧政となる事などであった。多数派と言っても、相対的な多数派であり、死票が多くなる。この点も野党は指摘した。立憲国民党は、法案が選挙権の拡大を含まないことについても批判した(第2次西園寺政友会内閣の立場は、現状では直接国税10円以上の維持で十分だというものであった)。同党の田川大吉郎は、大選挙区・比例代表制に改める修正案を出している。4月26日付の日記において原敬は、弁護士等のように常識がある者が良いと思っても、弁護士にも議場で広告的行動をする者がいるとしている(『原敬日記』第4巻245頁)。原は衆議院本会議の答弁でも、大選挙区になって人才を得たとは言えないとしている(『帝国議会衆議院議事速記録』二六191頁)。

立憲政友会でも、鵜沢総明、戸水寛人、中村啓次郎ら法曹議員(上で原が批判している弁護士である)を中心として、小選挙区制に反対する議員達がいた(三谷太一郎『日本政党政治の形成』244~245頁)。鵜沢は『太陽』(1912年2月所収44~48頁)に掲載された論文で、小選挙区制になると、操縦しやすい地方的な議員が選ばれるとした。立憲政友会の松田源治は、政党の地盤の育成が目的の一つだと認めている。大選挙区では政党の地盤が常に薄弱だとしている(『新日本』1912年2月所収83頁)。反執行部派であった日向武徳は、自らを採決の除外例とすることを求めた(このために脱党する勇気はないという発言をし、笑いを誘っている-1912年3月4日付読売新聞。立憲国民党、中央倶楽部の反対についても報じている-)。

西園寺内閣・立憲政友会は、社会主義や無政府主義について、弾圧すると水面下で活発になり、暴発を招くという考えであった。この小選挙区制への改正は、彼らの議会進出を抑える策でもあった。弾圧するよりも、政治の表舞台から排除するに留めた方が、得策だという立場である。しかしそもそも、選挙権の納税額による制限を取り払わない限り、彼らが一定の議席を獲得する可能性は非常に低かった(普通選挙を導入する時にも、小選挙区制を維持するという事なのだろうが)。このような説得を受ける側である(※)山県-桂系(に連なる議員)が多い貴族院も、立憲政友会のさらなる強化を警戒して、小選挙区制に反対した。大選挙区制はそもそも、政党、特に2大民党系が力を付けないように、山県らが導入したものであった。山県系は、立憲政友会(の原)が、郡制に続いて大選挙区制という、山県が導入した制度を標的にしたとも捉えていた。こうして法案は、貴族院において、立憲政友会が同意し得ない大選挙区制に修正され、成立するには至らなかった。両院協議会では衆議院の案が可決され、これが衆議院で可決、貴族院で否決されたのである。この際、旧又新会残留派の花井は、衆議院の案に反対でありながら、法律問題ではなく体面の問題として、衆議院独立の面目を保つために賛成した(同派の細野次郎も法案の第1読会において、貴族院が反対した場合はどうするのかと質問しており、原は回答を避けている―『帝国議会衆議院議事速記録』二六194頁―)。同様であったのかは分からないが、立憲政友会の他、旧又新会残留派系の梅原、大竹、橋本、加瀬、才賀、早速、大西も賛成している。旧戊申倶楽部系で無所属となっていた議員のうち、岩下、磯部、加藤、松尾、1911年2月15日に立憲国民党を脱した田川大吉郎、結成翌月に中央倶楽部を離れて無所属となった井坂光暉、補選で当選し無所属に留まっていた三谷軌秀も賛成している(以上の賛否については同480~481頁)。このうち立憲政友会入りしているのは、磯部と井坂と三谷だが、井坂以外はまだ先の事である(磯部は中正倶楽部を、三谷は亦楽会を経ている)。

※ 1911年12月16日付の原隆の日記(『原敬日記』第4巻416~417頁)に於いて原は、自らが山県に勝った事を記している。原は過激な議論をして当選しようとする事を阻止するために小選挙区制にすべきだという事を述べた。原は立憲政友会が反対で党議拘束をしない限り、衆議院では普通選挙への改正が成立するという見方を述べ、そのためにも小選挙区制にしておく必要があるという内容の事を述べている。なお、この時山県は、大選挙区制に賛成ではなかったのに提出されたと述べ、原は()付きで、伊藤と自由党の提携中だから自由党から出されたものだという事だろうと記している。実際には政党との連携に失敗した第4次伊藤内閣、立憲政友会が閣外協力をした第2次山県内閣が提出し、後者が成立している。

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