日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党再編(⑬⑭)~非政友会再編の動き~

野党再編(⑬⑭)~非政友会再編の動き~

1912年2月12日付の読売新聞は、5千万円の歳出削減を唱えていた中央倶楽部と、6千万円余りの歳出削減を唱えていた立憲国民党の、提携への動きが進む見通しである事、提携への動きが内閣交代(第2次西園寺政友会内閣成立)の時に始まっていた事を報じている。また、立憲国民党土佐派(本章実業派の動き野党再編(⑩)~吏党系再拡大、中央倶楽部の結成~参照)が画策していた党改造の動きを毛嫌いしていた、同党旧非改革派の有力者が、今はそれを斡旋しており、ほとんど党の与論になっているともしている。そして「某政客」が述べた事として、両党派が第11回総選挙で立憲政友会に共に対抗することになり、選挙後に合流の問題が解決する可能性がある事を記している。立憲国民党と中央倶楽部は、歳出削減で生じた余剰を、減税と共に海軍充実に充てることでも一致していた(1912年2月6日付東京朝日新聞。中央倶楽部は所得税としている)。国民党が対清政策について各派に交渉すると、中央倶楽部は直ちに応じ、中華民国政府承認を決議した(1912年2月12日付読売新聞)。第1次西園寺内閣の一時期もそうであったように、やはり立憲政友会中心の内閣になれば、改進党系と、政権寄りという足かせのなくなった吏党系とは、接近するのである(それは、立憲政友会の原と比較的関係の良かった桂はともかくとして、山県の意向に反する動きではなかった)。

少しさかのぼるが、1910年5月12日付の原の日記によれば、桂(当時総理大臣)は、海軍でドレッドノート型戦闘艦新造の話が必ず持ち上がり、立憲国民党がこれを利用すると見ていた(『原敬日記』第4巻53~54頁)。実際に当時、立憲国民党も、山県-桂系(本来は陸軍と一体的で、薩摩系が海軍と一体的であるという面が、もちろん例外はあるものの、あった)に連なる中央倶楽部も、海軍充実を唱えている。この日の原の日記には、桂が次の通りの事を語った事も記されている(同54~55頁)。桂は中央党(中央倶楽部)にも立憲国民党にも全く関係はない。立憲国民党は、片岡(三重県郡部選出だが土佐出身、土佐派)の策で中央俱楽部に合流して政府に接近しようとするだろうが、それは桂が容れるものではない。土佐派の再興を計るものだろうが、万が一何かの行き違いで桂と立憲政友会が衝突すれば、彼らは立憲政友会に走る。これを見ると、両党派の接近が第2次桂内閣期からのものであったようにも思われる。しかし当時は大合同(非政友会勢力全体の合流)が失敗したばかりである。戊申倶楽部から立憲国民党の結成に参加した土佐派は、以前から大合同に熱心であり、再編が左右2つの小合同に落ち着いたことは、彼らにとって挫折であったと言える。だから当時は、土佐派が小合同前からの動きを止めておらず、立憲国民党と中央倶楽部の全体的な接近の動きについてはやはり、内閣の交代で活性化した面が大きいと見るべきだろう(もちろん、土佐派の動きが功を奏したのだと捉える事もできる)。またこの日の日記には、犬養(立憲国民党非改革派)が山本権兵衛(薩摩系)に決起を促したという話があるという事も記されている(55頁)。非改革派の方も当時、第2次桂内閣と立憲政友会の接近を前に、立憲政友会に寄ろうとするなど、展望を開くために色々動いていたのだろう(これについては本章1列の関係野党の2択(⑪)~鉄道広軌化と、政国合流を狙う犬養~等参照)。

時を下って1912年に戻ると、上の2月12日付の読売新聞は、立憲国民党と中央倶楽部の合流の動きに対抗して、立憲政友会と立憲国民党の「健全分子」によって、「純民黨」を結成する計画も一部にしばしば企てられているとしている。しかしそのような計画があったとしても、立憲政友会は過半数を上回る与党として順境にあり、大きく割れる事は考えにくい状況であった。この構想は、原が第2次桂内閣期(野党時代)に心配したような、親薩長閥議員(右派ともし得るが打算もあっただろう)の政友会離党とは逆の、反薩長閥派(左派ともし得る)が離党するものだと考えられる。優位政党の立憲政友会が反薩長閥の方に傾けば、親薩長閥が離党する(原が、立憲政友会が立憲国民党―の非改革派―と組んでもメリットがないと捉えた、まさにそのケースである)。反対にこの当時のように、立憲政友会が薩長閥に寄れば(特に野党である場合、政権譲渡の約束がない時には)、反薩長閥が離党する。どちらであれ、そのような分裂は、衆議院を以下の2つの勢力に分化させる。

① 立憲政友会の親薩長閥派、立憲国民党の改革派、吏党系

② 立憲政友会の反薩長閥派、立憲国民党の非改革派、新民党(当時は解散していた)

立憲政友会が先に割れれば、改進党系全体にとってのチャンスであるから、立憲国民党が逆に団結するという事も考えられる。しかしその可能性は非常に低かったし、立憲政友会は立憲国民党の2倍を超える議席を持っていたから、立憲政友会が割れても、立憲国民党が第1党になるわけではなかった(立憲政友会が3つ以上の党派に大きく割れない限り―無所属になる議員達を一つの党派と捉えて3つ以上―)。であれば立憲国民党は、立憲政友会の動きにどうしても引きずられる。実際に立憲政友会は全く割れなかったから、立憲政友会という成功例を前に、立憲国民党も薩長閥に寄ろうとした。中央倶楽部はもともと薩長閥寄りであったから(だから自分達をもっと大事にして欲しいという願いがあった)、解散していた又新会系(新民党)を除く衆議院の全党派が、薩長閥への接近について、競合するような形となっていった。そうなると、相手を選べる立場ではある薩長閥(自由党系の立憲政友会か、改進党系の立憲国民党かを選べる。吏党系の中央倶楽部は元々かなり自由に動かせる)は、有利になると同時に、山県-桂系の側と、それ以外、つまり薩摩系の側とに、遠心力が働く(もともと双方、というよりも劣勢にあった薩摩系に、対抗意識があっと言える。なおこのような事は、冷戦後の自民党にも見られた―※―)。そうなると普通に考えれば、山県-桂系と立憲政友会の連携に対抗して、薩摩閥と立憲国民党の連携が浮上する(図⑩-U参照)。これは第2次松方内閣期に実現した組み合わせであるし(改進党系は当時は進歩党)、上で見た犬養が山本に決起を促した事が事実なら、少しは下地もあったと言える。あるいは、与党となった立憲政友会に不満のある、山県-桂系を含む長州閥の一部等と、立憲国民党が接近するという事も考えられなくはなかった。後には実際に、桂系と立憲国民党の約半数、吏党系が合流することになる。それについては次の11章で見るが、上で見た、立憲国民党と中央倶楽部が提携するという報道を、その兆候と捉える事もできるだろう(山県-桂系も、衆議院の非政友会勢力も、立憲政友会1党優位の状況を、少なくとも喜んではいなかった―1党優位でなければ衆議院はもっと彼らの意のままになっていたかも知れない―)。

※ 自由民主党には冷戦期にも、日本社会党と近い大物議員。公明党や民社党と近い大物議員がいた。だが、民主党が台頭するまで与野党の対決構図が動揺していた冷戦後は、第2党の新進党にも第3党の民主党にも、自民党と組む可能性があったことから、参議院で過半数を下回っていた自民党の中が、新進党と組もうとする保保派と、民主党等と組もうとする自社さ派に分かれたのである。もちろんその背景には、大物議員達の間の対立感情、主導権争いがあった。

 

このような状況になるとしても、立憲国民党の分裂が回避されるとは全く限らなかった。薩長閥(山県-桂系か薩摩系)に接近するにしても、立憲政友会に追従して、同党と共に接近するか、あるいは同党に対抗して(別ルートで)接近するかという、選択が残るからだ。立憲政友会と立憲国民党が同等の規模であったなら、どちらかが山県-桂系、どちらかが薩摩系、というように分かれ得るのだが、山県-桂系にとっても薩摩系にとっても、立憲国民党が選択肢ではあるとしても、より連携したいのは立憲政友会であった。同党と組まないのであれば、まず総選挙で連携相手を大きく増やさなければならない。そのような事に挫折したり、そのような事を回避してきたのが薩長閥であったにもかかわらずだ(ただし挫折と言っても、自ら本格的に取り組んだわけではないし、吏党系と比べれば立憲国民党の組織力、地盤はしっかりしていた)。立憲国民党が分裂したり、中央倶楽部(吏党系)と新民党が対立関係になったりすれば、非政友会勢力の小合同を第1段階とする、第2段階としての大合同も不完全に終わる事になる、立憲国民党改革派と中央倶楽部が合流するなら、それを中合同・第1.5段階と捉える事もできるかも知れないが、どうであれ第2段階・大合同は実現しなくなる(少なくともそのような構図である間は。図⑩-P参照)。

ただし、上の、立憲政友会と立憲国民党の「健全分子」によって、「純民黨」を結成する計画も一部にしばしば企てられているとしているとする記事は、それがその都度反対派のけん制運動に阻まれているとする。そしてこの時期の立憲国民党の議員達と立憲政友会の合流についても、それを喜ばない勢力によってまたもや阻止されるとしている。そのため、各勢力の間に介在してあらゆる政治問題を左右する実権を掌握し、政界革新を進める有力な中立団体が結成されるとしている。同紙がいう中立団体とは、旧又新会残留派や、戊申倶楽部解散後に無所属となった議員達によるものだろう。当時はそれ以外の無所属議員は少なかったから、それら以外が想定されていたとは考えにくい(第11回総選挙に立候補すべき非議員をも想定しているとしても)。記事はこれを立憲政友会と立憲国民党の合流よりも容易だとしているが、確かにそうだろう。反薩長閥志向の議員たちによる、あるいはそのような議員達が主導権を握る大政党を再編で生むには、新民党の再興が必要だという見方だと言える。以前の新民党は、改進党系を親薩長閥にしないための小合同には成功したが、立憲政友会の新薩長閥でない議員達を巻き込むところまではいかなかったという事だろう。

なお、立憲国民党非改革派の議員の一部には、陸軍についても予算削減の対象とし、中央倶楽部の綱領と差をつけようという考えがあったようである(7月2日付東京朝日新聞)。それをすれば、山県-桂系との接近はほぼ不可能になる(山県-桂系の最上層部に限れば、自らが政権の中心に戻る事を考え、あるいは政界の中心を自負して、困難な財政状況の下での調整の必要から、陸軍の予算を削減する事はあり得る。しかし最上層以外はもちろん、最上層部も、立憲国民党がそれを要求する事を是とはし得なかった)。

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