日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
群雄割拠(⑬⑭)~桂と原の一時的な影響力の低下と薩摩閥浮上の前兆~

群雄割拠(⑬⑭)~桂と原の一時的な影響力の低下と薩摩閥浮上の前兆~

1910年11月29日の原敬の日記によれば、中央新聞記者の辰巳豊吉が原に次の事を述べた(『原敬日記』第4巻125~126頁。中央新聞は大岡育三が経営していた国民協会の機関紙と言えるもので、大岡が立憲政友会入りした事で、同党の機関紙という性格を持った)。第2次桂内閣期の事である。安楽兼道(交友倶楽部貴族院議員、元内務官僚)が山本権兵衛(薩摩系)と面会したところ、山本が、公平な内閣を組織するなら原、松田が入閣すべきだとし、安楽は内閣が立憲政友会と提携するなら入閣するだろうと答えた。安楽は山本に野心が生じているとして、原に山本と会うことを勧めた。しかし原は、桂が山本と原の身辺に注意しているから難しいと答えた。原はその少し前の11月10日付の日記に、薩人(薩摩系)に自らの勢力を回復させる意思があるなら、官僚主義では長派(長州系)に及ばないため、必ず政党によって発展を計ると、原が床次竹二郎(内務官僚。後に立憲政友会衆議院議員)に話した事が記されている。第2次松方内閣と、その多数派工作(進歩党との連立、内閣支持会派の形成)が失敗して以来、薩摩系は沈んでいた。それがここにきて、主に山本権兵衛の存在、動きによって浮上しつつあったことが分かる。1910年5月12日付の原の日記には、犬養(立憲国民党非改革派)が山本に決起を促したという話があった事が記されている(『原敬日記』第4巻55頁)。こういった事も山本の動きを活発にした可能性がある。しかしもしそうであるなら、山本はそれでも立憲国民党ではなく、桂と関係が良好であった立憲政友会と、立憲国民党を含む連合を前提とせずに組む道を進んだわけである(第11回総選挙後―の大正政変後―に総理となった山本は、立憲政友会のみと組んだ)。

薩摩系は海軍と一体的であり、海軍は増強のための多額の予算を求めていた。これは当時の日本において、不要なものでは全くなく、従って他の政治勢力も全否定するものではなかった。しかし陸軍だって強化は必要であったし、国内のインフラ整備もまだまだ途上であった。だから海軍、陸軍、利益誘導志向の自由党系(立憲政友会)のパイの奪い合いは、ただの党利党略(派利派略)とばかりも言えない深刻なものであり、各勢力とも政局で勝とうとしたのだ。

薩摩系浮上の要因を山本に求めたが、それだけではない背景が当然あった、それは政界の世代交代である(図⑩-H参照)。山県系は山県から桂に、立憲政友会は伊藤と星から西園寺と原に世代交代していた。立憲政友会は世代交代前よりも、総裁(党首。伊藤→西園寺)がかざりに過ぎないという面が強まった(伊藤は決して飾りではなかったが、自由党系が非常に多かった衆議院議員達をコントロールできず、つまり立憲政友会結成の事実上の最大の目的を果たせず、事実上党を去った)。党の実務が星から原に受け継がれたという面が大きいが、松田正久の存在もあった。立憲政友会はもともと、星、尾崎、松田が中心であったと言えるが、星は殺害され、尾崎は一度去り、原と松田が中心となっていた。そのもう一人の中心人物であった松田に、原への対抗心があったとしても不思議ではない。原は陸奥宗光系、伊藤系の出身であったが、対する松田は自由党系の九州派であった。後の呼び方を用いれば、原が官僚派、松田が党人派であった。このような差異は、両者の姿勢の違いに反映され、そこには立憲政友会の幅の広さというプラス面、亀裂が生じ得るというマイナス面があった。また西園寺も、権力欲が小さかったからと言って、単なる飾りである事を受け入れるつもりはなかった。この事が、西園寺と松田を薩摩系に接近させた。原が桂と近い中、自分達は薩摩系と、という事である。松田は薩摩系と同じく九州の出身であった事も、接近の背景にある。西園寺が総理に就き、立憲政友会が与党となった事で、このような薩摩系へのシフトが実行されたのだ。複雑なのは、原が桂と近いからと言って、山県-桂系全体が、いや桂ですら、原・政友会を全面的に信頼していたわけではなく、多くがなお、政党、政党内閣に否定的であった事だ(政権を譲るのは、信用できない同党を体制に組み込むためであった)。普通なら、山県-桂系・政友会原系が、薩摩系・政友会松田系より強く、新内閣に対抗することができる。しかし前者が一枚岩ではなく、桂と原の個人的な関係、駆け引きの積み重ねに過ぎなかったため、それは困難であった。前者はすぐには動けず、前者の山県-桂系と重なる陸軍が第11回総選挙後に、軍部大臣現役武官制を利用した拒否権の行使という強引な手段を採るに至る。その第11回総選挙の前には、立憲政友会の奥繁三郎らが海軍の財部彪を訪問し、「海軍充実の為陸軍ヲ圧迫」するかわりに総選挙に向けての資金援助を求めた(1912年3月31日付財部日記―坂野潤治『明治国家の終焉』119頁―)。

以上の事と同時に、そして一体的にも、立憲政友会西園寺・松田、山本大蔵大臣の消極財政最優先路線があった。それは立憲政友会の原内務大臣等、そして陸軍、海軍の要求とぶつかる。ただし海軍とは上述の通り良好な関係があり、海軍の要求だけはある程度受け入れられた。これこそが、陸軍の上述の強硬姿勢を招く事になるのである。同時にこれは、第4次伊藤内閣(立憲政友会中心の内閣)の内部対立の、繰り返しだと言える。もちろん力関係などに相違はあるが、この当時までの政友会中心の内閣は、3つの内2つ(第4次伊藤内閣、第2次西園寺内閣)までもが、積極財政と消極財政の内部対立に陥っているのである。自由党系の積極財政が党にとって有効であるだけに、それが党内の力関係と深く結び付き、経済状況から見た時の困難さと合わさった時に、党内対立が深刻化するのだと言える。前回は消極財政の渡辺国武大蔵大臣(第6章⑰参照)、今度は積極財政の原内務大臣が党内で孤立するような形となった。関東派、東北派を率いる原は個人で孤立したわけではなかったし、消極財政志向の元老井上馨や財界は、消極財政を求めていた。

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