日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・野党の2択(⑫)~立憲国民党の境遇と強硬姿勢~

1列の関係・野党の2択(⑫)~立憲国民党の境遇と強硬姿勢~

立憲政友会が中央に位置するという構図は変化しつつあった(図⑩-A第6章1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)~繰り返される歴史~参照)。しかし政界全体が薩長閥の山県-桂系と、自由党系に2極化してきてはいても、改進党系がまだ残っており(薩長閥薩摩系もあった)、衆議院はなお、改進党系(立憲国民党)が第2極、薩長閥に連なる吏党系(中央俱楽部)が第3極という、3極構造であった。薩長閥が改進党系と組めば、衆議院も2極構造となって、立憲政友会の優位性が崩れる可能性はあった。だが改進党系は、内部が反薩長閥と親薩長閥に分化していく傾向を強めながら、分裂まではせず、フラフラしていた。これでは薩長閥も組む事はできない。もし改進党系(立憲国民党)が本当に分裂しても、もともと立憲政友会の半分以下の同党の、その半分程度では、吏党系と合わせたり、有利な状況で総選挙を戦わせるとしても、安心できる規模だとは言い難かった。

なお、政界全体が薩長閥と自由党系の連合体と、改進党系の2つに分かれた場合、改進党系の埋没は避けられる。山県-桂系と立憲政友会を、共に旧体制の主要な構成要素として同一視することで、存在感を示すことができるからだ。しかし埋没しないからといって、強くなるわけではない。独裁勢力に近い面がある薩長閥と、その薩長閥が唯一思うように動かせない衆議院の、過半数を上回る立憲政友会。これらが合わさったものと、衆議院の第2党とでは力の差があまりに大きく、改進党系に希望があったとは考えにくい。

立憲国民党は当時、まだ非改革派が劣勢に立ったわけではなかったから、山県-桂系に接近する機会が失われ、かといって薩長閥の他の部分と、敵をつくらずに組む展望も開けない中、(まずは)政権と対決姿勢を採ることとなった(「敵をつくらずに」というのは、薩長閥の一部に接近する事で、他の一部に警戒されたり、嫌われたりせずに、ということである。個々の大物も拒否権を持っているに近い薩長閥と組む事は、簡単ではなかったのだ。立憲政友会に対する薩長閥の弱みは、同党の反発を招いた場合、衆議院で予算案や他の法案が通らないという事であった、立憲国民党にそのような力はなかった)。

立憲国民党の対決姿勢は第27回帝国議会において、決議案となって表れた。大逆事件と南北朝正閏問題について、合わせて政府の責任を問う決議案、そして日米通商航海条約の改定に際して、アメリカに、同国への移民渡航禁止の声明を出させるに至った事を批判する決議案、さらに、決算に予算、法律、勅令に反するものがあると、責任を問う決議案(租税のむごい取り立て、国家の財を無駄遣いだと批判)を提出した。どれも犬養他2名の提出で、同調する党派はなかった。

これらに先立ち立憲国民党は、第27議会に向けた決議において、「韓国併合に際し政府は違憲の措置を干し、且つ朝鮮總督は不法の聖霊を續發せり」と謳った(『立憲政友會史』第参巻3336~338頁)。同様の中央倶楽部宣言書(同338~339頁)には、そのような趣旨の文言は見られない。立憲国民党の決議は、内閣の海軍充実案を姑息なもので、国防の体系に副うものではないとしている。これに対して中央倶楽部の宣言書には、海軍設備の改善、国防の充実がある。非常に対照的である。なお、又新会は解散したままであったが、朝鮮ニ施行スルヘキ法令ニ関スル法律案の提出において、新民党はその重要な役割(議会重視、民主化)を果たしたと言える。

この第27議会において、全院委員長選挙では協力できても、立憲国民党の強硬的な野党路線に同調する党派がなかったことは、当然予想できる事ではあっても、非改革派の限界を良く表していた。又新会も当時すでに解散していたわけだが、元又新会や元戊申倶楽部の無所属議員が野党的な会派を結成したり、立憲国民党に合流する動きを起こせば、まだ少しインパクトがあったであろうが、野党陣営は手詰まりであった。

立憲国民党だけでなく、薩長閥に軽視される中央倶楽部も手詰まりであったが、この2党派の境遇は、第2次西園寺政友会内閣が成立する事で、一度はさらに不利になりながらも、好転も含む変化をする。

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