日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(⑫⑬)~政権譲渡を巡る駆け引き~

1列の関係(⑫⑬)~政権譲渡を巡る駆け引き~

1910年12月1日付の原敬の日記(『原敬日記』第4巻127~129頁)を見ても分かるように、桂総理は今回(第27議会後だと思われる)限りで辞職する方針であったものの、西園寺が後継となる事は確実であったわけではなく、同じ山県-桂系の、つまり同派の中での桂の後継ともし得る、寺内正毅となる可能性もあった(もちろん次が西園寺、その次が寺内という可能性もあった)。寺内が次の総理大臣になれば、政友会内閣の実現は遠のく。原は当然それを警戒していた。1910年4月6日付の原の日記に、彼が連立は不可、寺内に譲るのは特に不可だと西園寺に決心を促したという記述がある(『原敬日記』第4巻42頁。1911年4月14日の原の日記には次の事が書かれている。山県が桂に、自分もやったように立憲政友会と提携する事を勧めたが、桂は西園寺が健康でいる限り、それはできないとした。その上で桂は原に、後継を西園寺にする時は急転直下、決行するしかない、山県が反対すれば、山県がやるべきだと脅迫するしかないとした(『原敬日記』第4巻238頁)。この山県の姿勢と状況は重要である。簡潔にまとめれば、政党中心の内閣には否定的だが、自らが総理となっても、衆議院の多数派、つまり政党の支持を得る方法がなく、自信がないという事だ。西園寺への大命降下を認めない事で、山県は政友会内閣の成立を直接的には阻止できた。しかし代案がない以上、帝国議会開設当初の出口の見えない薩長閥と政党の対決が繰り返される事は目に見えていた。そうなれば結局、立憲政友会に政権を譲るか、薩長閥の誰かが(伊藤博文に続いて)政党を肯定し、それと組む事になる。当然その間、政治の停滞は深刻なものとなるから、山県はもはや、事実上の政友会内閣の誕生を許すしかなかったのである。それはもちろん、立憲政友会が同党中心の内閣の成立について、譲らなければの話である。

1911年8月26日付の原の日記には、桂が山県に次のように言ったと記されている。

將來政府の局に立つ者を漸次造り置くにあらざれば國家の前途は甚だ氣遣しき次第故、今回西園寺侯に之を譲り、西園寺侯も亦其後繼者を作り置く事ならんと思ふ

山県はこれに同意したのだという。この記述の少し前には、桂が貴族院に手を触れないよう原に頼み(原が立憲政友会を意のままにはできないように、自分も貴族院を意のままにはできないという事を言った上で。これはつまり、桂の意に反して貴族院が西園寺政友会内閣に強硬な態度をとり得るという事であったと言える)、反抗されれば自衛上、相当の処置を要する場合があると返している(同328~329頁)。

上で見たように当時、薩長閥中心の内閣に、立憲政友会が入るという形も考えられはした(とは言っても、閣外協力はもはやあり得なかっただろう。閣外協力では第2次桂内閣の情意投合とあまり変わらない)。この連立の線で立憲政友会が妥協するなら、そのような内閣がまずは成立しただろう。しかし当時の立憲政友会は、衆議院において過半数を上回り、簡単に切り崩されるような状態でなかったから(本章1列の関係1党優位の傾向野党再編(⑩)~野党再編と1列の関係参照)、それ以上の事を要求することができたのである。原は1911年7月12日付の日記において、大浦が大勢を悟らずに第2次桂内閣を維持させようとしており、中央倶楽部を基礎にして政党操縦を企てているものの、桂がこれに同意しない事は事実だとしている(1911年7月12日付-『原敬日記』第4巻312頁-)。さらに、第2次西園寺政友会内閣成立直前の1911年8月26日付の日記によれば、原が桂に、争論の渦中に入らずに後継内閣を援助するのか確認をしようとすると、桂はもちろんのことだと答えた(『原敬日記』第4巻328頁。8月30日にも援助を確認している―同342頁―)。興味深いのは、その前日、8月25日付の日記にあるように、伊東巳代治が入閣を希望し、岡崎邦輔に働きかけた事である(同325頁)。伊東は伊藤系だが、自由党系の土佐派と近く、彼らの影響力低下・立憲政友会離党もあり、影響力を弱め、山県に接近するなどしていた(第8章⑤参照)。入閣希望者は立憲政友会にも多かったようで、日記には北陸系の領袖であった杉田定一(8月25日付―同325頁―)、鳩山和夫(8月29日付同-339~340頁-。本人は病にかかっており、妻が渇望していたものの、入閣運動を中止させた事が記されている)が挙げられている。1911年12月21付には、杉田が次に衆議院議長就任を目指したが、大岡が優勢である中、断念させた事が書かれている(同420頁。大岡に敗れた)。

こうして誕生した第2次西園寺政友会内閣は、政友会中心の内閣という色を強めた。薩長閥(山県-桂系)から、より自立した内閣となったのである。内閣の人事は桂の意向に反するようなものとなった。このことについて内閣成立の約2カ月前、原は西園寺に次のように語っている(『原敬日記』第4巻284頁、6月8日付)。

今後政界の情況並に我黨内の事情を察するに、今回は閣内一致して外間の壓迫に堪ゆる必要があるに因り、一時の都合を計りて異分子又は他の推擧せし者を採用するは甚だ不得策なり

第1次西園寺内閣は厳密に言えば、立憲政友会の内閣ではなく、あくまでも立憲政友会が中心の内閣であった(しかも当時の制度では、総理大臣は他の大臣の上にあったわけではなかった)。多党との連立ではなく、薩長閥が閣内にもいたのだ。それを、政友会内閣が一体となって、衆議院第1党である立憲政友会の考えを実行していく体制を整えようとしたわけである(とは言っても、陸軍大臣、海軍大臣はそれぞれ山県-桂系、薩摩系にせざるを得ない)。1党優位の問題等が残されていたものの、当時の日本は立憲政治の道をさらに進み、民主政治へと少し近づいたのだと言える。

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