日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
未熟な民主主義国家に宿った、第1、2党の連合体、最強の優位政党、自民党

未熟な民主主義国家に宿った、第1、2党の連合体、最強の優位政党、自民党

※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。

 

さて、単独政権を維持した日本民主党(第27回総選挙後なので「第2次」鳩山一郎内閣となった)であったが、躍進してもまだ、衆議院の過半数を大きく下回っていた。そこで同党は自由党と合流した。長年のライバル(自由党離党者達にしてみれば、自由党内で激しい権力闘争を繰り広げた相手)からやっと政権を奪い取ったのに、早々と合流するのだから、感情、そして政策よりも、政権維持を優先する、驚くほど現実的な姿勢である。もちろん、冷戦が始まっていた当時、社会主義勢力を勢い付かせず、その伸張を抑えるという、保守の「使命」もあった。

こうして誕生したのが自由民主党、つまり自民党であった。自民党は、衆議院の大部分の議席を占めたこともある、戦前の2大政党の本流同士が合流した政党である。同時に、戦後の3大政党のうちの2つが合流した政党、または日本協同党~国民協同党の系譜を含めて、主要4政党のうちの3政党が合流した政党だということもできる。これで優位政党にならないはずがない。

日本社会党も、自民党が誕生した1955年までは、左右両派に分かれていた。しかし、この分立していた2つを合わせても自由党、日本民主党という2大保守政党の一方と同程度の議席数であった(1955年2月27日の第27回総選挙の前は、自由党180、日本民主党124、左派社会党74、右派社会党61、総選挙の結果は日本民主党185、自由党112、左派社会党89、右派社会党67)。それでも当時は、労働者の増加によって、いずれ日本社会党の政権ができるという見方もあった。

しかしそうはならなかった。全くならなかったということを知っているから、自民党が万年優位政党として結成されたように見えるのだという面もある。自民党が圧倒的な議席数をもって結成されたこと、その議席数が、安定した地盤の上にあったこと、状況を変えるのに十分なだけ、有権者を引き付ける政党に、社会党がならなかったこと、すでに述べた比例代表制ではない選挙制度、総理大臣が事実上好きな時に解散することが出来ることなど、自民党に有利な条件がそろっていたことが、自民党を優位政党に留めたのだといえる。当初は分からなかったのかも知れないが、自民党が万年優位政党として結成されたのだという面もあるといって良いだろう。

定数が基本的には3名から5名の中選挙区制では、1位になる必要もないから、戦前からの地盤を持つ議員達、その後継者が、比較的楽に当選できてしまう。社会党の候補も少数なら当選しやすいのだが、自民党より多く、というのは難しかった。すでに述べたが、共倒れの危険もある中、各選挙区で当選者を1名増やすというのは、至難の業であった。党の支持率が大幅に上昇して、やっと少し議席が増える状況であったと言っても、大げさではないだろう。議席を増やすことが難しいのは、自民党も同じであった。しかし、自民党は議席数を維持すれば良かった。いや、実際にそうであったように、多少減らしても良かった。結成時の議席数を見ると、65議席減らしてもなお、過半数をギリギリ維持することができる状況であったのだ。

社会党はなぜ支持を広げられなかったのか。それはもちろん左に寄り過ぎて、経済成長に満足する有権者を引きつけられなかったためである。だが、それにも歴史的な背景がある。

イギリスの労働党やドイツの社会民主党と同じように、日本の社会民主主義政党も、大政党となるための、極左(共産党)を除く左派の結集を達成して、議席を伸ばしていった。戦前の社会大衆党がそれである。しかし間もなく、議院内閣制の挙国連立内閣とは異なる戦時体制に、日本は突入した。ヨーロッパの議院内閣制の国々の多くでは、産業構造の変化などが進んでおり、社会民主主義政党が第1党となるに至ったが、日本ではその変化は、戦後まで下ってもなお、不十分であった。左派政党が右派政党(保守政党)と対等に渡り合うためには、まだ時間が必要であった。

それまでは保守派(保守主義、自由主義の勢力)が圧倒的に強いということになる。それらも一枚岩ではなかったが、社会党との距離を考えれば、しっかりとしたかたまりであった。そうなると、野党の社会党は、これに反抗心を持つことになる。政策で勝負するというよりも、圧倒的な強者に、社会党がとにかくぶつかっていくという構図だ。それではチェック機能を部分的に果たすことは出来ても、有意義な論争は期待できない。それでも、どうせすぐには勝てない強敵なのだから、その強敵を少しでも弱らせていきたいと思うのも人情だろう。

ここにもう1つ、重要な要素が加わっていた。日本は戦争に負け、連合国軍の占領の下、それまで漸進的であり、戦時体制下には後退していた民主化を、一気に加速させた。これは左派を勢い付かせた。しかし冷戦が始まると、連合国は、日本に社会主義が浸透することを防ぐため、路線を転換した。これにより日本は、民主化・非軍事化の「逆コース」へと歩み出した。警察予備隊(→保安隊→自衛隊)の創設など多くあるが、具体例は省略する。社会党、特に左派は、これに立ち向かった。戦争の記憶が鮮明な時代、それは一定の支持を得た。保守主義、自由主義が右派で、社会(民主)主義が左派という時代であったが、日本では、平和主義=左派という要素が加わったのである(ヨーロッパの社会民主主義政党は軍事について、日本のそれのように、保守派と決定的な違いはない。冷戦の時代にも、資本主義を明確に肯定していた)。社会党には様々な考えがあったが、日本が明確に資本主義陣営に与する中、社会主義国を理想像とする社会党にとって、いずれの陣営にも与しない非武装・中立の主張は、崇高なものにも見えるし、便利なものであった。しかし社会主義陣営に加わりたくないという国民の多数派にしてみれば、賛成できない主張であり、資本主義陣営の庇護を受けながら、それを批判する、矛盾する主張に見えた。このような面は、第2次大戦の記憶が薄れると共に大きくなったし、自民党も、憲法改正・再軍備という、旧日本民主党の方針を事実上捨てたから、社会党の極端さがよけいに際立った。

冷戦終結後、一度は第2党の地位を失った社会党の系譜は、民主党へと衣替えをして、その地位を回復した。自民党が右傾化し始めると、民主党も、それに反対する姿勢を強くするようになり、左派=非現実的な平和主義・とにかく反自民という傾向が復活した(共産党はずっとそうであったが、大きな勢力ではなかった)。

まとめれば、社会党~民進党の理想主義は一定の支持を得るものの、自民党の現実主義に対する支持には遠く及ばず、これが、政権交代を妨げ、1党優位の状況を継続させているといえるのだ(このことについては、また改めてじっくりと考えることにする)。欧米における保守派対自由派という対立が、日本では、一応自由党系を保守派(本当は薩長閥が、衆議院の多数派から見れば保守派であったが)、改進党系が自由派とも言えるところ(同時に、自由党系も改進党系も自由派だと言うこともできる)、戦後ようやく右派政党(保守派・自由派)対左派政党(社民系)になるはずが、社会党が分裂状態にあったために、当初はあまり変わらない面もあり、五十五年体制に入ってようやく、そうなっていった。しかし左派政党は社会主義の色を薄められなかった。なにより、双方は対等ではなく、欧米の基本形を、日本はいまだにしっかりと経験していないのだと言える。

 

 

 

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