日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
参議院がある

参議院がある

そう、日本は二院制であり、一部の重要な問題について衆議院の優越が認められているものの、一般の法案に限れば、参議院は拒否権を握っているといえる(それでも、参議院で否決された場合、衆議院において3分の2の賛成を得れば成立する)。内閣が参議院を解散することはできないことは、政権交代の力になるものだと言いたい。しかし必ずしもそうではない。むしろ参議院の存在が政権交代を阻んでいる場合の方が多いと思われる。なぜか。その根拠を挙げよう。

一つは日本社会党が、自由民主党から独力で政権を奪うことができなかったことを背景としている。自民党に対する有力な挑戦者はいつも新党であった。細川内閣への政権交代の原動力となったのは三つの新党、特に新生党と日本新党であった。この両党や従来からの野党であった公明党や民社党が合流した新進党は、自民党に対する有力な挑戦者と見られた。その解党後は、民主党がそうであった。

新進党は、3つの新党、日本新党、新生党、新党さきがけの参議院の議席数が少なかったため、参議院における議席率は、衆議院のそれよりずっと小さかった(新生党でさえ結成時8、入党する議員があってやっと13議席、日本新党は4議席、新党さきがけは0→4議席、さかのぼると新自由クラブは結成時1、最大で4。日本維新の会も参議院議員は少なく、唯一みんなの党は参議院議員0でスタートしたものの、結成翌年の参院選で躍進することができたため、例外とし得る)。それはなぜかといえば、日本新党に関しては、参議院が3年ごとに、半数ずつを改選する仕組みだからである。日本新党は議員ゼロから始まった。そして初めて迎えた1992年の参院選、1993年の衆院選において、躍進した。しかし参院選の時は比例区でしか戦わなかった。そしてしかし何より、1995年の参院選を待たずに新進党の結成に進んだため、参院選を半分しか戦っていない状況のまま、政権交代、再編を迎えたのであった。

新生党、新党さきがけは、参議院が衆議院のように政局に直接かかわらない独自性を持っていたことから、自民党を離党する際、行動を共にする同院の議員を、わずかしか得られなかった。もちろんそれを増やすのは、半数ずつが改選となる制度上、成功しても衆議院よりも緩やかにならざるを得ない。

新進党に代わって自民党に対する挑戦者となった民主党は、社民党、新党さきがけによる新党であり、そこに解答となった新進党の旧公明党以外の多くが合流していった。ただし結成時に、社さ両党の合流という形を採らず、両党からの離党者が、両党の指導者を排除する形で結成されたため、社民党の参議院議員の民主党への参加は一気に話されず、散発的な、ゆっくりとしったものとなった。もちろん、最後まで社民党に残る議員もいた。だから、そして民主党の結成後に同党に合流した議院も、多くが衆議院議員であった。つまり民主党も、参議院の議席を増やすのに時間を必要としたのである。

さて、自民党に対する挑戦者の、参議院の議席数が少ないじょうたいのまま、政権交代を迎えた場合どうなるのか。

野党は衆議院の総選挙で多数派となれば、首相指名選挙における同院の優越によって、政権を手にすることができる。しかし参議院で過半数に遠く及ばない場合、自民党の協力を得るしかなくなる(衆議院で3分の2を得ていれば法案は成立させられるのだが、時間はかかるし批判も受けるリスクがある)。つまり政権交代を実現しても、自民党に命運を握られた政見しか作れないことになる。

そもそも、その前の段階で、参議院で少数派である野党が政権を取った場合、ねじれ国会になって政権運営が不安定になりますよと、自民党は有権者をいさめることができるのだ。もちろん、自民党も民意に従って非自民党政権に協力しなければ支持を落とし得るのだが、政権交代後の与党の失敗を手掛かりに、判定攻勢に出ることは、より容易になる。その失敗を生んだり、演出したりすることも、比較的容易なのである。

このようなことから、自分たちが政権を取った場合のことを考えて、希望の党の若狭昇が一院制を唱えたのでは、とも思える。筆者は二院制を支持するが、このようなことが起こらないよう、参議院の在り方を大きく変えるべきだと考えている。

以下は補足だが、半数ずつの改選であることも含めて政権交代に直結しないことから、自民党政権の終了までは望まない有権者も、気楽に自民党を負けさせるということも、確かにあるといえる。

冷戦終結が確定した当時まるまるから、自民党が野党に負けたといえる参院選は一九八九年(社会党より少ない議席)、一九九五年(比例に限り新進党より少ない議席)、一九九八年(野党陣営が多党化していたため票も議席も第1党であったが比例区で民主党にかなり迫られ、与野党別で見れば大敗)、二〇〇四年(民主党より少ない議席)、二〇〇七年(民主党より少ない議席)と、民主党政権が迷走を始めるまでの期間では非常に多い。それに対して衆院選は、一九九三年と二〇〇九年だけであり、一九九三年は、自民党から大量の率者が出て野党に移ったことが要因であるから、非常に少ないといえる(1996年、2000年、2003年の総選挙では過半数に届かなかったものの、第2党を引き離す議席を得ており、また追加の入党者を得て、過半数に到達しており、あまり深刻な結果ではなかった)。

これを見ると参議院の議席数の方が変動が多く、同院の存在が政権交代のために有用であるように思われる。実際に民主党は、二〇〇四年の参院選で自民党に辛勝、二〇〇七年の参院選で圧勝して過半数に迫る第一党となり、それが政権交代への足掛かりになった(このことにはねじれ状態の悪用という問題もあるが、改めて述べる)。しかし二回続けて勝たないと勝利が決定的なものにならない。政権・与党第1党の支持率も、野党第1党の支持率も、当然ながら上りもすれば、下がりもする。同の党にとっても、2連勝は難しいのだ。参議院の存在が政権交代を助けることもあるとはいえ、全体的には、今の制度の儘では障害であると思う。

最後に1989年以後の参院選の後の状況をまとめて見る。

・1989年:自民党が過半数割れを起こし、野党の公明党と民社党の協力を得た。

・1992年:自民党は勝利したが、前回の敗北のために過半数には届かなかった。

・1995年:自社両党は敗北したが、自社さ3党連立政権としては過半数を維持。

※自民党は1989年の参院選が大惨敗であったために前回よりも獲得議席が大きく減ったにもかかわらず議席を増やした)

・1998年:社さ両党の連立離脱、自民党の大敗で、与党(=自民党)が過半数割れを起こし、

野党の自由党、公明党と連立を組んだ。

・2001年:小泉ブームで自民党が勝利したが、なお過半数には届かなかったが自公連立与党

では選挙の前後とも過半数であった。

・2004年:自民党は民主党に及ばなかったが、自公連立で過半数を維持。

・2007年:自民党の惨敗で、自公連立としても過半数割れを起し、民主党を切り崩したが状況は大きく変わらず、ねじれ国会のままに、2009年の政権交代に。

・2010年:自民党が民主党に勝利し、民主党と国民新党の連立政権が過半数割れに。

※民国連立政権は社民党の政権離脱後、すでに過半数を僅かに下回っていた。

・2013年:2012年に政権に復帰した自公両党が合計で過半数を回復。

・2016年:自民党が勝利し、参院選後の入党者により17年ぶりに単独過半数を回復。

あらためて言えば、辛勝を含むものの、野党が2連勝を達成した唯一の例である2007年だけが、政権交代の土台となった。一党優位制の下、野党が二回続けて勝つのは大変なのだが。

 

 

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