当時の政界を現在の視点で見れば、総選挙の結果に影響こそ受けるものの、総選挙による審判自体は受けない薩長閥が守旧派。議会、特に国民に選ばれる衆議院中心の政治、そこに基盤を置いて政権獲得を目指す政党が進歩派、あるいは民主的だと映る。しかし日本の場合、第1、2党の誕生は、藩閥政府内の権力闘争に起因している面が大きかった(薩長閥中心なので、筆者は藩閥を薩長閥と呼んでいるが、この権力闘争による分裂で、藩閥政府が明確に薩長閥政府になったという面が大きい)。それに当時はまだ世界的にも(列強では変化してきてはいたが)、政党はそれを支持する一部の国民を代表するに過ぎないという見方が残っていた(現在では政党は「部分」によって、「部分」の力で選ばれても、全国民のために働く事が常識となっている)。また逆に、薩長閥は選挙を戦わないからこそ、真に全国民のための政治ができるという面も否定できない(今はそのような非民主的な考えは通用しないが)。日本国民は当時、桂を山県や陸軍と一体だと捉えていた(第1次護憲運動も、桂を山県と一体的に藩閥―薩長閥、長州閥―と捉えた上での反発を動機、エネルギーにしていた)が、実際には桂は歳出を抑えるため、軍部の要求も抑えようとしていた。それは少なくとも、国民から税を取って自分達のやりたい事をやるというのとは、違っていた(そんな事をやれば経済に悪影響になる危険性が高い)。
このような事も念頭に置いて見ると、桂の先進的な面への違和感は小さくなる。その先進的な面とは、桂が間もなく政党(立憲同志会)を結成するという事の他、文官任用例の改正等を考えていた事である。桂は1月27日、30日に仙石を通して立憲国民党離党者の5領袖と会い、彼らが唱えてきた事に同意し、そのうちの文官任用例、陸海軍両大臣の資格の改正(後述)にもだいたいにおいて賛成したと報じられているのだ(1月30日付時事新報―千葉功『桂太郎』211頁―)。5領袖は責任制、つまり議院内閣制を求めていたが、これにも桂は、少なくとも理解を示していたようだ。そもそも桂総理が自ら率いる政党をつくるのなら、桂内閣は事実上政党内閣となり、政友会内閣も政党内閣であったといえるから(その色を強くしてきたのは、これまで確認した通りである)、もう事実上議院内閣制のようなものになる。残る課題はそれを明言するかしないかで、桂は当時、当然ながら明言する気はなく、自身もまだ、衆議院を抑えて政権を安定させるために新党をつくるという考えと、政党内閣が慣例となり、議院内閣制に近づいていく事を認める考え(※)の、中間に位置していたと想像する。立憲政友会で桂新党に参加する動きが全く広がっていなかった事からも、立憲国民党離党者の桂側に対する影響力は強まっていった。桂新党に関してはこれから見ていく)。
※ 立憲政友会が一定規模で残る場合、同党と桂新党の間を政権が移動する、政権交代と一体的なものになるし、それこそが議院内閣制の王道、民主的な国家への前進であった。
なお文官任用例の改正は、政府のポストについて、試験等による資格を求められる範囲を狭め、政党員が就けるようにするものだと言える。陸軍大臣、海軍大臣の資格は当時、現役軍人に限られていた。これを現役でなくても就けるようにすれば、軍部の拒否権(大臣を出さない事で組閣を阻止したり、大臣を辞任して後継を出さない事で内閣を倒すことができるため、それを交渉材料にする)は弱まる。桂の考えは別として、その先には軍部出身者に限らない、あるいは軍人を就けなくする文官制もあり得た。そうなっていけば現代の様に政党所属の議員が大臣になる事も考えられるが、当時はもちろん軍部が許さないし、それはまだ非現実的であった。
