日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
ドイツ帝国成立まで

ドイツ帝国成立まで

ドイツ帝国の中心となるプロイセンでは、納税額や財産による制限こそなかったものの(公的扶助を受けていない等の条件はあった)、3等級に分けられた間接選挙の、つまり貴族や大ブルジョワが人口に比して過大に代表される下院が設けられた。そこには保守派、自由派、急進的な民主派の中の穏健な勢力、カトリック派(プロテスタント国のプロイセンでは少数派)などが存在した。民主派は全体としては中小のブルジョワから労働者までをメンバー、支持基盤とし、君主の権限を弱めるような立憲君主制から社会主義まで、様々な考えがあった。

保守派だけでなく自由派も首相を出すことがあり、下院では最大勢力であった保守派は衰退し、自由派が過半数に迫る勢力となった(分裂後は合わせれば過半数だが、互いの差異は小さくはなく、合わせて見る意味はあまりない)。自由派の中の左派は進歩党を結成し、同党は第1党となった。同党に協力する中央左派(穏健な民主派でやはり議席を増やしていた)を合わせれば、下院において圧倒的な勢力となっていった。しかし首相のビスマルクは、議会が予算を否決しても構わず軍拡を進めるなど、十分に違憲とし得るような強硬姿勢を採った。その後、戦勝による領土拡大(ドイツ系が多く住む地域等をデンマークに割譲させた)。統一への動きが順調に進んだ。これは同一民族等の独立・統一を志向する、国民国家を目指す自由主義者(当初の自由主義の主な潮流)の望む事でもあった。このため、そのような考えを含んでいた自由主義左派も、動揺する事となった。

ビスマルクは、ドイツ系の主導権を巡るライバルであったオーストリアとの戦争に勝ち、同国を排除する形で北ドイツ連邦を、次にフランスとの戦争に勝利して(これによってフランスはナポレオン3世による第2帝政から第3共和政へ)、1871年にドイツ帝国を成立させた。

ビスマルクは予算が議会で承認されない中で行った事について事後承認を求めた。これについて進歩党等が分裂し、ビスマルク支持派が他の自由主義者と国民自由党を結成した。議会ではすでに保守派が復調し、進歩党等が議席を大きく減らしていた。

男子普通選挙であった北ドイツ連邦の下院の選挙結果は、保守派、国民自由党が他の勢力を引き離していたが、どちらも過半数にははるかに及ばない状態であった。

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