内政、特に選挙を担当する内務大臣に、山県-桂系の政党対策を担っていた大浦兼武が就いたことに、立憲政友会は反発した(『原敬日記』第5巻159頁-1912年12月18日付。西園寺が「吾々を斬るの意味か」と問い、桂が苦笑したとある-。後藤新平がこれを見越して大浦の入閣に反対した可能性がある―千葉功『桂太郎』198頁―)。大浦は中央倶楽部の事実上の指導者であり、吏党系は順境に置かれた。しかし第3次桂内閣が、尊重される政治勢力であるはずだった立憲政友会を軽視する姿勢を採った以上、立憲政友会と一定の協力関係になる事も難しく、準与党としては険しい道が予想された。
