日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
戦後、自由党系の優位政党への復帰

戦後、自由党系の優位政党への復帰

※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。

 

戦後の優位政党と言えばもちろん自民党だが、終戦と自民党結成との間の約10年間を見ると、吉田茂が党首を務めた、民主自由党→自由党が、他の政党を引き離し、単独与党であった期間が長い。自民党の中でも、この、日本自由党→民主自由党→自由党の流れを汲む派閥(田中派、竹下派へと続く佐藤派の系譜)が、他の派閥よりも優位にあった期間が長かったことはすでに見た。

この、公職追放となった鳩山一郎から吉田茂に託された戦後の日本自由党の系譜は、帝国議会開設以来、優位政党である期間が長い、自由党~立憲政友会の流れを汲む。つまり2大政党制のようなもの、非政党内閣期、中道左派政権(片山内閣と芦田内閣)を経て、再び自由党の系譜が、失っていた優位政党の地位の回復に成功したのだといえる。戦前の自由党系の歩みとの差異も含めて、戦後の自由党系が優位政党になり得る存在となった、その経緯を見たい。

戦後、解散していた各政党が装いを新たに復活し、政党内閣の幕が再び上がった。当初は、立憲民政党だけではなく立憲政友会の一部をも母体とする、戦時議会の主流派による日本進歩党の議席数が圧倒的であった。しかし総選挙によって、この日本進歩党と、立憲政友会の流れを汲む日本自由党、そして社会大衆党の流れを汲む日本社会党が、ほぼ肩を並べる状況となった。

以前述べたように、吉田自日本由党内閣の次に、日本社会党と、日本進歩党の後継政党であった民主党、そして国民協同党による3党連立内閣が2つ続き、いずれも短期間で総辞職をした。そして、民主自由党の時代となった。

民主党は、日本進歩党に、日本自由党と国民協同党のそれぞれ一部が合流した政党であったが。日本自由党はしかし、この切り崩された議員達を大きく上回る数の民主党離党者を加え、民主自由党になった。離党者とは、日本社会党との連立に不満を持つ議員達であった。

政権に復帰した民主自由党は、第24回総選挙で日本社会党と民主党が惨敗したことで、第2党以下を大きく引き離す存在となった。

民主党は、民主自由党との連立を唱える連立派と、これに反対の野党派に分裂した。そして第3次吉田内閣が資本主義国のみとの講和条約締結に動くと、日本社会党はこれに賛成の右派と、全面講和を主張する左派に分裂した、吉田・民主自由党の存在と方針が、第2党と第3党を大分裂させたのである。さらに民主自由党は民主党連立派と合流し、自由党となった。

自らの拡大路線と総選挙による議席の増加、野党の総選挙による議席の減少と分裂によって、吉田茂の自由党系は、他の政党を大きく引き離す勢力となった。自由党系が成功した理由は、戦前の自由党系とは異なる。土台となったのは、戦時中に軍部に抵抗した鳩山一郎が、戦前の自由党系の流れを継いで自由党を結成したことである。そしてその後の更なる躍進は、公職追放となった鳩山に党を託された吉田の、信念と先見の明にあった。社会党左派と組むことはせず、社会党を中心とした内閣が成功しないことを予見していたということだ。ただし、官僚出身者を重用することにこだわるなどの吉田の頑迷さは、党を分裂、政権喪失に導く。この点については改進党系の傾向に近く、優位政党らしくない。民主党から多くの議員が移って来たことも、自由党の成功に不可欠の事象であったといえるが、その背景にも、吉田の信念から来る、左派~左翼勢力と対決する保守合同路線があった。一方で戦前の改進党系(の一方)と様々な勢力がくっついてできた民主党は、公職追放の影響を最も大きく受けたこともあり、党内のまとまりは悪かった。党首となった日本自由党出身の芦田均が、吉田茂のものとなった自由党系に対抗することを、他のことよりも優先し、党分解の引き金を引いてしまったといえるだろう。

確かに、日本自由党の系譜が第2党以下を大きく引き離していた期間は長くはない。第24回総選挙から日本民主党の結成(改進党と自由党離党者の合流)までとすると、約5年10ヶ月である。日本自由党の系譜が衆議院の過半数を上回っていたのは、第24回総選挙から、鳩山派が離党した1953年3月までの、約4年2ヶ月だけである。この程度では本来、1党優位制であったとは言えない。しかし自由党系と、第2党との議席数の差は大きかった。自由党を鳩山ら22名が離党して、残部が第26回総選挙で23議席減らして、やっと第2~4党の合計議席が自由党の残部を上回るという状況であった(第2党は改進党、第3党は左派社会党、第4党は右派社会党、第5党は自由党を脱した、もう1つの自由党であった。他には1ケタの小会派、小党が計3つあり、第26回総選挙後は小会派クラブという15議席未満の会派を結成した)。吉田と鳩山がもめず、分裂も起こらなければ、その先も長く、自由党系は優位を維持していたと想像される。

日本民主党、改進党というのは、民主党の流れを汲む政党である。民主党の野党派は、国民協同党と合流して国民民主党を結成した(最近の民主党、国民民主党と党名が同じだからややこしい)。そして改進党系(立憲民政系)の公職追放解除者と改進党を結成した。一方の自由党では、自由党系の公職追放解除者と、その筆頭格であった鳩山一郎から留守を預かっていた吉田の対立が起こり、一度自由党入りした(復党したともいえる)公職追放解除者が離党して、もう1つの自由党を結成したのである。彼らの多くは再度自由党に戻って、また離党した。そして彼らは同じく離党した岸信介(やはり公職追放解除者)ら、そして復党しなかった議員達が結成した日本自由党と共に、改進党と合流して日本民主党を結成したのである。議員の数を見れば、日本民主党は改進党の後継政党だとするのが自然である。しかし日本民主党の主導権を握ったのは自由党の離党者達であった。

結局、追放解除となった旧世代の政治家が日本民主党に集まる形となり、同党は前身の、経済への介入に肯定的な、左派政党に近い面を維持すると共に、外交、安全保障に関してはアメリカに反感を持ち(それがソ連との国交正常化に向かったのだから、それも結果的には左派的でもあったのだが)、憲法改正、再軍備を志向するという、右派政党らしいものとなった。これについては、日本民主党がねじれていたとも、国家社会主義政党に近かったのだとも言える。対する自由党は、経済優先の、現実的な日本の優位政党らしい政党であり、この性格が自民党に強く反映されているわけである。

この日本民主党は、結成時には衆議院第2党であったが、吉田内内閣と対決していた左右両派社会党の協力を得て、自らの単独政権を成立させることに成功、衆議院を解散して、第27回総選挙で衆議院第1党となった。自由党系が、総選挙ではなく党の分裂によって政権を失ったのだということには、注意しておかなければいけない。前にも述べたが、このようなことが日本では多すぎて、有権者が政権選択の訓練を積んでいないという大問題がある。この時も、日本民主党政権が誕生した後、有権者は総選挙でそれを追認したに過ぎないのだ。終戦後10年近くが経っても、まだ戦前の政党内閣期と同じような状況であったのだ。

とにかく吉田内閣だけは倒そうとした当時の野党は、とにかく安倍内閣だけは倒そうという、今の野党と似ていなくもない。次の政権の枠組みにリアリティーがないのは、1党優位制だからだと、言えないだろうか。

なお、左右2つの社会党は、衆議院議長選挙では自由党に協力し、勝たせた。キャスティングボートを握った社会党系が、互いに対立感情のある2つの保守政党を翻弄する、という可能性もあったわけである。そのような状態を放置すれば、2大保守政党が競って左傾化するか、過半数を上回る政権の基盤の形成が極めて難航する事態になっていただろう。2大保守政党の合流による自民党の結成は、それを避けるためでもあったと言える。

 

未熟な民主主義国家に宿った、第1、2党の連合体、最強の優位政党、自民党→

 

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