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第3極・実業派の動き(①②)~2つの実業派会派の誕生~

第3極・実業派の動き(①②)~2つの実業派会派の誕生~

第4回総選挙の約3ヶ月前、1894年6月5日付の伊藤宛の書簡において伊東巳代治は、第3回総選挙における活動の不十分さを認め、第2次伊藤内閣寄りの中立議員を増やすことに意欲を見せている(『伊藤博文関係文書』二288頁)。そこには次のようにある。

総選挙に付ての方針

松方内閣之時に於ける如き干渉の不出来事は勿論に候へとも、去り迚全然放任致置候事も決して智計に有之間布、其法律上道義上に於て不都合無之限りは、其推重する所の人物を挙け候事に尽力するは毫も非難すへきにあらす。前回之総選挙之時の如き、道楽仕事として少しく世話致候迄にても十名程の温派議員を得候儀故、若し仮に毎府県一名宛之中正議員を選出すと算定致候も、即ち四十余名は有之候筋合に付、干渉はせさるも放任はせんとの御方針に候へは、前回よりも更に好結果を可得は必然に可有之候。

同年10月12日付の伊藤宛の井上馨の書簡(『伊藤博文関係文書』一269頁)には次のようにあり、第2次伊藤内閣寄りの無所属議員をまとめる動きがあったことを窺わせる。

追々内務省官吏等参集且中立議員等も同様に御座候間、明日勝之助着之上は野村着次第夫々必用之点に口授候上は、其翌日是非共発足不申申而は実に五月蠅事と推察仕候。

ただし、井上馨の後任の内務大臣に就いた野村靖は伊藤系ではなかった。この当時、伊藤系がどれだけ積極的に動いたか、そして第2次伊藤内閣を支持する無所属の候補者がどれだけ当選したのかは分からない。戦時下にあっては、大っぴらに内閣を追い詰めようという勢力も皆無であった。日清戦争は総選挙前の7月に始まり、総選挙の当時、国内にはすでに挙国一致的な風潮が広がっていた。

そんな中、実業家中心の会派は、大手倶楽部と実業団体の2つが結成された。大手倶楽部は一部の実業派等が結成した対外硬派の会派であった(実業派には、外国人の日本国内での自由が商売にマイナスに作用するという懸念を抱いて、対外硬派に加わる者もいたのである-佐々博雄「熊本国権党系の実業振興策と対外活動―地域利益との関連を中心として―」52頁-)。ただし、当時の報道等で実業家が中心の会派だとされていて、実際に実業家も少なからずおり、ここでもそのような会派として扱っているものの、所属議員の経歴を見ると、実業派としての傾向は弱い。大手倶楽部には、第3回総選挙後に中立倶楽部に属した議員が2名(うち1名は湖月派からの移動)、独立倶楽部に属した議員が1名、湖月派に属した議員が上の1名を除いて1名いた。彼らは第3回総選挙後の上奏案の採決の際、対外硬派と同様の投票行動を採っていた。

実業団体には、第3回総選挙後に中立倶楽部に属した議員が3名、独立倶楽部に属した議員が1名いた。中立倶楽部の3名は、原善三郎が内閣を批判、弾劾する全ての上奏案に反対し(第3章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-C参照)、他の2名が自由党と同様の投票行動を採っていた(ただし目黒貞治は対外硬派の上奏案の採決を欠席したか投票を棄権している)。独立倶楽部出身の秋岡義一は、対外硬派の上奏案に反対したものの、自由党案を対外硬派が修正したものには賛成した。彼は実業団体結成の1年後に加盟しているから、結成時からのメンバーであった中立倶楽部出身の3名とは志向に差異があったのかも知れない。しかし大手倶楽部に対外硬派寄りの、実業団体に第2次伊藤内閣寄りの傾向がったことは間違いない。中立勢力における実業派の台頭、その中立実業派の、第2次伊藤内閣寄り(政界縦断支持派)と対外硬派への分離は続いていたのだといえる。なお、大手倶楽部には越佐会の国権派、大竹貫一が所属したが、越佐会の衆議院議員の多数派は立憲改進党に属していた。

もう1つ特徴的なことがある。大手倶楽部に鉄道関係者が皆無であるのに対し、実業団体には多いのである。伊藤の足元の山口県内選出議員を除いてみると、この特徴は一層強いものとなる。陸奥宗光が鉄道同志会の協力を得ようとした(第3章第3極実業派の動き(①)参照)ような、鉄道関係者を味方にするという、第2次伊藤内閣の路線に起因する傾向だといえよう。

第6回帝国議会において衆議院が解散された当時の、中立倶楽部の所属議員11名のうち、第4回総選挙に当選したのは5名であった。同様に独立倶楽部は12名のうち3名、湖月派は6名のうち1名であった。以上の議員達、つまり第4回総選挙において当選した旧中立3会派の議員で、実業団体にも大手倶楽部にも属さなかった議員は、1人もいない(1895年3月の補欠選挙において無所属で当選した元中立倶楽部の佐藤昌蔵は、1896年9月に自由党入りしているが、補欠選挙での当選であるため、ここには含めていない)。政党に属さない実業家の新旧議員は、引き続き、第2次伊藤内閣支持寄りと対外硬派に分かれ、会派はむしろ、議員の姿勢に応じて整理されたのだといえる。

実業団体には伊藤の足元の山口県内選出議員、再び議員となった岡崎邦輔を含む、陸奥の足元の和歌山県内選出議員が含まれており、後者は大方陸奥系の議員であった(伊藤之雄「自由党・政友会系基盤の変容―和歌山県を事例に―」-『近代日本の政党と官僚』-305頁の表1によれば、自由派とされている小幡儼太郎(定数2の和歌山3区選出)を除く、全員が陸奥派である。『議会制度七十年史』政党会派編では、小幡を除く和歌山県内選出の議員4名が紀州組とされている)。なお、陸奥系は選挙区の基盤が盤石ではなかった(第2章第3極(⑤⑥⑧⑨⑩)~野党化した中立派の役割~参照)。その基盤の中心は郡部であったが、郡部は鉄道の敷設ルートを巡って、市部(商工業者)と対立関係にあった。そんな中、市部選出の岡崎は第3回総選挙への立候補を断念せざるを得なかった(国費による鉄道敷設は実現せずに終わる―伊藤之雄「都市と政党―一八九三~一九〇三年の和歌山市―」187~190頁-)。そして第4回総選挙では当選した岡崎が、陸奥系の同士、伊藤総理の膝元の山口県選出の議員など、同様に実業派という面が小さい勢力と共に、「実業」の名を背負う会派を結成したことは、中立勢力の中心が、実業派に移っていたことを示しているといえる。

つまり実業団体には、旧中立倶楽部、山口県内選出議員、旧紀州組系による、第2次伊藤内閣寄りの勢力の連合体という面がある(『議会制度七十年史』政党会派編では紀州組、山口組に関する記述はあるが、実業団体については記されていない。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、反対に実業団体についてのみ、記されている。報道等で実業団体の存在は確認することができる。第2次伊藤内閣の中心人物の地元の衆議院議員達の多くが、一定のまとまりを形成し、薩長閥政府寄りの実業家とさらに大きなまとまりを形成したと考えるのが妥当だろう。和歌山県内選出議員は全5名が無所属で当選し、実業団体に参加した。山口県内選出議員7名のうち、1名は国民協会から当選し、他の6名は無所属として当選した。その6名のうち1名は、大手倶楽部の結成に参加した-この1名である河北勘七は東京朝日新聞が国民協会からの当選としており、読売新聞は準国民協会としている-。残る5名が、『議会制度七十年史』政党会派編で山口組とされており、そのうち4名が、実業団体の結成に参加している。第3回総選挙後、山口県内選出議員7名のうち、国民協会の1名と無所属の1名以外の5名-5名分-が自由党と同様の投票行動を採ったこと-7名のうち1名が対外硬派と同様の行動から自由党と同様の行動に転じ、自由党と同様の投票行動を採っていた1名が自由党の案を対外硬派が修正したものについては棄権している。これを合わせて1名分に数えての5名分である。第3章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-D参照)、その5名分から対外硬派と同様の投票行動に転じた1名を除いた5名の中の3名が実業団体の結成に参加していることを考えると、山口県内選出の全衆議院議員における伊藤寄りの議員の比率は同程度を維持したか、あるいはわずかに低くなったように感じられる)。

1898年2月24日付の伊藤宛の書簡(『伊藤博文関係文書』二384~385頁)において伊東巳代治は、伊藤内閣期に尽力した目黒貞治を特例として幇助するよう求め、阿部浩、原善三郎もこれを願っているとしている。時期的に、同年3月15日の第5回総選挙に関する話であろう。目黒が伊東と近く、原、阿部と共に、少なくとも第2次伊藤内閣期までは伊藤寄りであったことが窺われる。なお阿部浩は、中央交渉部、国民協会と歩み、第3回総選挙では当選しておらず、第4回総選挙では無所属として当選し、結成後の実業団体に加わった。それ以外の会派に属していたことはない。

第3回総選挙後の中立倶楽部と第4回総選挙後の実業団体に属した望月右内が、第2次伊藤内閣において1894年10月まで内務大臣を務めており、伊藤の協力者であった井上馨に、1895年2月5日付の、議会の平穏、予算案の短時間での議了を記した書簡(井上馨関係文書)を送っていることからも、実業団体が第2次伊藤内閣寄りであったことが窺われる。また、1895年12月12日付の読売新聞は、いわゆる吏党として運動してきた実業代議士と称する原善三郎、佐藤昌蔵、目黒貞治ら20名の一団体が、次の内容の密約をしたと報じている。

・野党の責任に関する上奏案、不信任的な決議案を防ぐ

・国民協会、純然たる中立議員と鉄道等実業問題について交渉し衆議院を解散させない方針を採る

・第9議会で万一解散となれば自由党と同じく再選のための運動をする

内閣寄りの姿勢がかなり明確に表れている。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、当時無所属とされており、1896年9月18日に、補欠選挙で支援を受けた自由党に入る佐藤昌蔵も、第3回総選挙後は中立倶楽部に属していたのだし、実業団体と近かったのかも知れない。

1895年12月27日付の読売新聞は、大手倶楽部が発表することになった議決書の項目を報じている。次の通りである。

一遼東還附に關する責任を問ふ事

一朝鮮事件に關する責任をふ事

一陸海軍備の擴張を計る事

一戦後の財政整理を計る事

一諸般實業の發達を計る事

他の勢力と比べて決して特色のある内容ではない。それでも、対外硬派としての姿勢と、実業派としての姿勢が合わさったものだとはいえる。

以上から、実業団体が第2次伊藤内閣寄りであったことは間違いないといえよう。そして大手倶楽部は、実際に対外硬派の戦列に加わっていたことからも、少なくとも全体としては、第2次伊藤内閣と対峙する会派であったことは確かだ。

話は逸れるが、原は第3回総選挙後の中立倶楽部結成の際にも、解散の回避を唱えている(第3章補足~中立3会派分立の経緯~参照)。参考として、1898年11月28日付大隈重信宛大倉喜八郎等陳情書に、次のようにある(渡邊幾治郎編『大隈重信関係文書』六289~290頁)。

謹テ惟ミルニ萬世不磨ノ寳典タル憲法ヲ發布シ帝國議會ヲ開設セラレシヨリ既ニ九年其星霜ヲ經ル長シト云フヲ得スト雖ドモ爾來政度ノ革新ヲ觀ルモノ盖シ鮮シトセス然ドモ動モスレハ政府ト議會ト相衝突シ國運發達上ニ障碍ヲ與ヘタルノ蹟モ亦タ少々ナラサルナリ而シテ今ヤ復タ将ニ政府ト議會ト衝突ノ不幸ヲ覩ルアラントス豈慨嘆二禁ユべケンヤ

願フニ今日ニ在ツテハ内治ニ外交ニ整理發達セサルヘカラサルモノ多々アリ此時ニ方リ政府ハ政黨ヲ無視シ政黨ハ復タ一種ノ感情ニ制セラレ政府ト議會ト和協セズ偶以テ議會解散ノ不祥ヲ觀バ国家ノ政務ハ何ニ據テ擧ルベキ戦後ノ財政ハ何ニ據テ整理スベキ我商工業ハ何ニ據テ發達スルヲ得ベキ乎

衆議院議員達にとって、自らの身分が失われる衆議院の解散は当然ながら回避すべきものである(もちろん自らの再選が確実で、総選挙の前後にわたって存続するような自らの勢力があり、それが伸長するという自信があれば別である)。仲間を増やしたいという志向はあったとしても、自党の躍進を目指す政党政治家ではなかった実業派にとって、衆議院の解散は、大倉の書簡にあるような意味においても、回避すべきものであったのかも知れない(そのような面が政党の議員達より強かったのかも知れない)。原が実業家として、そのような理由から解散を回避しようとしていたとしても、不思議ではない。

 

 

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