日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・実業派の動き(①)~第3極・中立派の交代~

第3極・実業派の動き(①)~第3極・中立派の交代~

第3回総選挙は事実上、第2次伊藤内閣寄りの勢力、つまり政界縦断支持派・同容認派と、対外硬派との戦いであった。既存の勢力は皆、このいずれかに属し、中立といえる勢力は、衆議院にほとんど存在しなかった(多く見ても実業団体、大阪派の2会派で、その合計議席は15に満たなかった)。この総選挙において、同盟倶楽部(新民党)が25から19議席に、政務調査所が19から5議席に減った。紀州組は中心となった岡崎が立候補を断念するなど、消滅に追い込まれていた。陸奥宗光の地元の和歌山県では、鉄道を走らせる路線等を巡って、陸奥系の地盤であった郡部の地主層と、市部の実業家層との対立が強まっていた。選挙区が市部にあった岡崎は、このために立候補を断念したのであった(伊藤之雄「都市と政党―一八九三~一九〇三年の和歌山市―」187~190頁)。つまりどちら側でも、かつての中立派は全く振るわなかったのである。なお、第3回総選挙では陸奥系の兒玉仲児も出馬しておらず、彼の和歌山2区(1人区)では、鉄道同志会のメンバーであった望月右内が当選している。長井純市氏は、兒玉の不出馬等に、鉄道同志会の協力を得ようとした陸奥宗光(当時外相)の意図があったこと、自治等構想に呼応したことがあるという望月の経歴が井上馨(当時内相)に期待をさせたと推察している(長井純市「第六議会と鉄道同志会」76~8頁)。望月は中立倶楽部の結成に参加し、政府側についた(本章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-C参照)。しかし超党派であった鉄道同志会のうち、明確に対外硬派に属する議員(柴四朗、菊池九郎)は、やはり対外硬派として行動した(1894年5月18日、6月2日付東京朝日新聞附録)から、長井氏も指摘した通り、鉄道同志会に属する衆議院議員を全て味方とし得たわけではなかった。話しを戻し、第3回総選挙は、自由党が76から119へと議席を大きく増やす一方、対外硬派が減少した選挙であった。対外硬派であっても、地盤が比較的にしっかりしていた立憲改進党は、42から51議席に、自由党時代からの地盤を比較的よく維持した同志倶楽部は21から24議席に増えた(本章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表補-Cを用いて数えると、同志倶楽部は解散時の21議席のうち15議席分を、第3回総選挙において同じ選挙区で得ている。6つの選挙区で6議席分は失われたが、第3極の他の勢力と比べ、支持基盤をかなり維持できたのだといえるだろう。新たに当選者を出した選挙区も少なくない。議席を失った選挙区は福島3区、栃木2区、福井4区、広島7区、長崎2区、大分1区で、栃木2区が自由党か旧大日本協会・政務調査所派か判別不能、長崎2区が無所属、大分1区が国民協会に奪われている。他は、すべて自由党に奪われている。新たに議席を得たのは青森1区(1議席から2議席独占に)、長野5区、佐賀1区(0から2議席独占に)、2区(総選挙後に自由党へ移動)、3区(2区と同じ)、熊本5区、大分6区、宮崎2区の計8選挙区、9議席分である。うち6議席分を他の対外硬派、特に九州で四議席分を国民協会から奪っている(ただし全選挙区で国民協会からの事実上の立候補がなく、同志倶楽部の当選者は国民協会の前職と対決したわけではない)。長野5区と熊本5区は自由党から奪っている(双方とも自由党の候補―長野5区は前職―を破っている)。また以上には、上に同一人物が政党、会派を移動したことで議席を失う形になった例も、議席を新たに得る形となった例もない)。しかし他が議席を減らしたため、既存の対外硬派は合計131議席へと減少し、過半数を割ったのである(いずれも、第5回帝国議会における衆議院の解散当日の議席数と、第3回総選挙の結果を比較したものである)。以上から、2大民党と、その分派であった同志倶楽部以外、つまり組織力に乏しかった勢力は、第3回総選挙において振るわなかったのだといえる。

2大民党と、その分派であった同志倶楽部以外の諸勢力の代わりに躍進したのが、新たな中立派であった。彼らは衆議院のキャスティングボートを握った。繰り返し述べるように、当時は総選挙の前後における議員の入れ替わりが激しかった。既成政党とその分派以外の場合、再選された議員や前議員から円満に地盤を継承した議員が、無所属となるか、新たな会派を結成することも多い。しかし国民協会、同盟倶楽部、政務調査所は総選挙後も存続したから、再選された議員はもちろん、第2回総選挙では当選していない議員達も、近い立場であれば、それらに参加していたはずである。一方、実業団体、井角組、大阪派は再結成されていない。この3派のメンバーのうち、第3回総選挙に当選している議員はほとんどいない。名を挙げると、実業団体の原善三郎、村野山人、井角組の井上角五郎、大阪派の村山龍平である。前2者は中立倶楽部の結成に参加し、後2者は無所属のままであった。再選された全2名が中立倶楽部の結成に参加しているのだから、同倶楽部を実業団体の後継と見ることができなくもない。中立倶楽部の稲田政吉には実業団体の中沢彦吉の後継という面もある(1894年1月10日の付読売新聞では、稲田が中澤に自らを後継に不出馬を決めることを求めていたとあるだけで、中澤が稲田を自らの後継候補と認めたために第3回総選挙に出馬しなかったということは確認できない。ただし中澤が出馬を取りやめたことは確かである(1894年1月13日付読売新聞)。1892年2月9日付の読売新聞には「中澤氏彌々稲田氏に譲る」という記事もある。この第2回総選挙の時は、中澤も稲田も結局出馬し、票数が同じになり、年長の中澤の当選となった。両者の対立は利害、支持層の相違によるものであったというよりも、双方共が衆議院議員を目指したことによるものであったのだろう。1894年2月22日付の読売新聞は、第1回総選挙の当選者、風間信吉が、「近來陰然稲田氏に力を添ふるやの傾向あるより」としている(風間は無所属で当選した後立憲自由党に属したが、第2回総選挙では中澤を支持していた-1894年2月22日付読売新聞-)。記事によると風間の支持者は反発し、自由党の中島に傾いたようであるが、このことも、稲田に中澤の後継という面が多少なりともあることを示している。また、稲田が東京書籍出版商組合の副頭取であった時、第2回総選挙後の実業団体に属した原亮三郎は頭取を務めている(1887年11月15日付読売新聞)。

しかし、上に挙げた4名のうち村野(薩摩藩出身)と村山は、第3回総選挙後、上奏案について対外硬派と同様の投票行動を採った(本章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-C、表③-D参照)。本来井上馨に近かったものの、地価修正派、対外強硬派でもあった村山は、第2次伊藤内閣成立後の第4回帝国議会において、それまでと異なり、大阪派で唯一、明確に民党と同じ投票行動を採っている(表②-A参照)。また、村山と同じく大阪府内の選出であり(村野は兵庫1区選出)、村野、村山と同じく対外硬派と同様の投票行動を採った前川槇造は、大阪派の浮田桂造の後継であった(1894年1月11日付読売新聞)浮田も対外強硬派であり、保守中正派を率いていたことがあった鳥尾小弥太と近くなっていたようだ(1891年8月19日付読売新聞)。ともかく、村野の投票行動は、本稿で推定している実業団体の立場とは矛盾しているのである。中立倶楽部に所属したことがある議員のうち、第1回、あるいは第2回総選挙で当選したことのある議員は原、村野以外には佐藤昌蔵ただ1人である。彼は第3回総選挙後、対外硬派に反対の言動があったために国民協会を除名となり(1894年5月6日付読売新聞)、後に自由党入りしたが、中立倶楽部、実業団体と歩んだ原善三郎、目黒貞治と近かった(第4章第3極実業派の動き(①②)第3極実業派の動きキャスティングボート(④⑤⑦⑧⑩⑪)参照)。以上を踏まえると、中立倶楽部には実業団体の後継という面が多少あると同時に、対外強硬派も含んでいたということになる。

 

 

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