日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極(⑱)~山下倶楽部の「縮小再生産」~

第3極(⑱)~山下倶楽部の「縮小再生産」~

立憲政友会の結成前後、これに参加しようとする議員達が続々と離脱して、日吉倶楽部と議員同志倶楽部は、共に5議席前後となった。中立が存在意義を失ったことを体現する動きであったといえる。しかしそうであっても、中立派の残部の議員達は展望を開かねばならない。とりあえずは、中立的な会派の再興が課題であったといえる。それまでの形としては存在意義が完全になくなったのだから、発展することなど期待せず、消滅するまで便宜上集まっているか、存在意義を見つけなければならなかった。そこで、共に山下倶楽部出身の、2大民党等の合流に参加しなかった実業派の一部と、参加した地価修正派の多くが、前者が日吉倶楽部、後者が議員同志倶楽部となり、再度合流して、中立倶楽部を結成したという面がある(ただし議員同志倶楽部については2名と、例が少ない。中立倶楽部に参加した議員同志倶楽部系6名中5名は民党に属していたことがあった。日吉倶楽部には、憲政党に属していた山下倶楽部出身者もいたが、中立倶楽部に参加した旧日吉倶楽部系には、そのような議員はいなかった。山下倶楽部、議員同志倶楽部の双方に属したことのある、久米民之助、高梨哲四郎、和波は、順に群馬県、東京府、三重県と高地価地域の選出であり、うち賭博事件に関して有罪の判決を受けて失職となった和波以外が、中立倶楽部の結成に参加した。ただし地価修正派として有名な板東勘五郎は、再結成後の日吉倶楽部に加わるも離脱、立憲政友会の結成に参加した。以上『中小会派の議員一覧参照』)。だから中立倶楽部には、山下倶楽部が「縮小再生産」されたものだという面があった。中立倶楽部の議席数は、山下倶楽部の半数にも迫らない20議席であったが、壊滅状態であった中立派が、少し持ち直すように、拡大したということは間違いない。

1899年11月23日付の読売新聞によれば、議員同志倶楽部は、無所属の長谷場純孝、大三輪長兵衛を発起人に加え、中立議員大懇親会を開催しようと、中立議員40名あまりに案内状を送った(幹事の臼井哲夫、高梨哲四郎の主唱によるものだとしている。記事では「議員倶楽部」となっているが、議員同志倶楽部と同じものを指していることは間違いない)。これは議員同志倶楽部結成後のことであり、40名と言う数を考えると、同派は親薩摩閥も含め、より多くの議員を集めようとしていたようだ。しかしあまり賛同を得られなかったのだということになる。長谷場と大三輪すら、立憲政友会に参加した(長谷場は結成時、大三輪は結成された1900年の、12月22日)。この構想は、立憲政友会が結成された後の1901年12月に、再度実現が試みられた。同月21日付の東京朝日新聞によれば、「嚴正中立の態度を確守して時事問題を研究せんとの目的」で結成された同交会というものが、同志を糾合しようとしていた。同会には、無所属の佐々木政乂、金森吉次郎、佐藤里治(議員同志倶楽部系)、広瀬貞文(議員同志倶楽部系)、久米民之助(議員同志倶楽部系)、天野若円、高梨哲四郎(旧議員同志俱楽部系)、松島廉作(憲政本党離党)、中村弥六(憲政本党除名)、塩田忠衛門が、すでに参加していたのだという(当時は日吉倶楽部と議員同志倶楽部派解散していた)。そして、小栗貞雄(憲政本党離党)、前川槇造(旧日吉倶楽部系)、佐久間国三郎(再結成前の日吉倶楽部に所属)、雨森菊太郎(旧日吉倶楽部系)、村瀬庫次(旧日吉倶楽部系)を勧誘しているとしている。すでに参加していた議員達を見ると、佐藤、広瀬、久米、高梨の4名が議員同志倶楽部の出身である。同派は議員辞職した者、立憲政友会への参加者が抜けるなどして12議席から7議席になっていた。だから、7名中4名が、同交会に参加していたことになる。そしてその4名全員が、5日ほど後の中立倶楽部結成に参加している(議員同志倶楽部の他の3名は、佐久間国三郎が中立倶楽部に参加、臼井哲夫と松尾又雄が無所属)。同交会に参加していた議員同志倶楽部の出身でない6名は、天野以外が中立倶楽部の結成に参加している。勧誘されていた5名も、全員が中立倶楽部の結成に参加している。構想は、規模が小さくなったものの実現したのである。日吉倶楽部残留者は4人全員が中立倶楽部に参加した(日吉倶楽部を離れていた島田三郎も参加)が、そのうち田口卯吉を除く、雨森、前川、村瀬は勧誘された議員として名が挙がっているから、中立倶楽部結成の主導権は、日吉倶楽部系ではなく、議員同志倶楽部系にあったいうことができる。

1900年の3月には、憲政党の星亨が、積極財政志向の各勢力と合流し、大政党を結成しようとしていたようである(3月15日付東京朝日新聞)。しかし、議員同志倶楽部では高梨が大政党組織に積極的であったものの、病のため思うように動けず、憲政党と帝国党の合流も、その歴史から難しい状況であったのだという(同21日付)。どの程度話が進んでいたのかは分からないが、構想が実現に至らなかったのは確かである。構想は、第2次山県内閣の支持派で新党を結成しようというものであったように見えるが、規模の大きな憲政党がまとまることができた場合、事実上、同党による他の勢力の吸収になるわけで、帝国党がまとまって応じるということは、現実的ではなかったといえる。このような構想は、山県系と伊藤系のどちらが(より深く)関わるかによって、またどちらが政権の中心に座るかによって、異なる影響を受けるものであったといえる。結局高梨は、立憲政友会の結成ではなく、中立倶楽部の結成に参加した。

旧日吉、議員同志両倶楽部系以外で、中立倶楽部に参加したのはどのような議員達であったのかというと、全て無所属の、次の8名である。()内に以前の所属政党、会派を記した)。

阿部興人(立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党)、天野若圓(大成会)、小栗貞雄(憲政党、憲政本党)、金森吉次郎(-)、佐々木政乂(大成会、中央交渉部、国民協会、実業団体―第四回総選挙後―、実業同志倶楽部)、塩田忠左衛門(-)、中村弥六(大成会、巴倶楽部、同盟倶楽部、立憲革新党、進歩党、憲政党、憲政本党)、花井卓蔵(-)、松島廉作(立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党)。憲政本党の離党者が4名と、比較的多いことが分かる。彼らは全員、憲政本党の結成に参加している議員達であり、自由党系の憲政党に属していた者はいない。彼らの憲政本党からの離党は、当時の報道を見る限り、主に選挙区事情によるものであったようだ。生粋の改進党系である阿部と松島も離党しているわけだが、阿部についてははっきりしている。徳島県に改進党系の地盤を作った尾崎行雄の、対立政党への移動(立憲政友会への参加)により、同県内から憲政本党の所属として当選することが、難しくなったことが要因である(1900年9月3日付読売新聞)。実際に尾崎が憲政本党を離党した8月27日の5日後(9月1日)、憲政本党の徳島県内選出議員全4名が離党しており、そのうちの1人が阿部であった。また、中村は布引丸事件(フィリピンの独立運動を助けるために送った武器を載せた船が沈没した事件)に関して憲政本党を除名された、対外強硬派であった。なお、『河野磐周伝』によれば、河野にも新党参加の誘いがったが、板垣を捨てて伊藤を担いだ自由党系に批判的であり、板垣を盟主として旧自由党の精神を維持しようとしたのだという(下巻573頁)。以上から、中立倶楽部は、憲政本党離党者が集まった会派という面も、持っていたと言える。明確な狙いをを持って集まったわけではないから、中立派とし得るのだ。ただし、日吉倶楽部出身者を除けば実業家が多くはなく、議員同志倶楽部系が主導していたことを考えると、中立実業派の性格は、山下倶楽部よりも弱くなったのだといえる。

中立倶楽部の参加者の中で、新民党で活躍することになる花井の名が目を引く。『花井卓藏全傳』は、花井が議員同志倶楽部に所属していたとしている(上巻525頁)。しかし筆者は、他の史料等によってそれを確かめることができなかった。よってここでは、所属していなかったとする『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に準ずる。また、中立倶楽部結成の翌日に、井上角五郎が新たに加わったことも印象的だ。井上は第1次桂内閣と独自に交渉していたことで、内閣に寄ろうとする議員達の先導者と見做され、12月26日(中立倶楽部加盟と同日)に重野謙次郎、田健次郎と共に、立憲政友会から除名されている。井上は、自由党系が憲政党、大隈内閣を内部から崩壊させた後に、自由党系の憲政党に加わり、立憲政友会の結成にも参加したものの、第1次桂内閣と近くなった。その背景には、鉄道国有化の目論見もあったようである(松下孝昭「日清・日露戦間期の鉄道国有問題」24~25頁。松下氏は、「立憲政友会の鉄道国有論者が、現政府に鉄道国有法案を提出させようとする算段から、桂内閣に対してきわめて譲歩的であり」と指摘している。また、井上については、呉製鉄所建設実現のためだという面もあった(『日本歴史大系』四近代一1009頁)。

 

 

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