2.キーワードで考える日本政党史

政界縦断・2大民党制(⑰⑲)~対立軸~

当時、日本の政界には外交路線をめぐる亀裂があった。日英同盟の締結を目指す対露強硬派と、ロシアとの融和を重視する対露協商派である。後者は伊藤博文、井上馨、そして伊藤に準ずる立憲政友会であり、日本が朝鮮、ロシアが満州に影響力を持つことを認め合うことでの合意を目指した。前者は他の伊藤系以外の薩長閥(主に山県系―とそれに連なる吏党系―)、憲政本党、加藤高明(三菱に就職したが、陸奥の力で外交官となり、第4次伊藤内閣外務大臣。妻は三菱の岩崎弥太郎の長女)であった。前者と後者が2大勢力となるような分化が起こる可能性もあった。しかし、薩長閥の実力者間の駆け引きがなされる中、対露強硬派の、日英同盟形成の成功によって決着を見た。

もう一つ重要なのは、日本が外交路線を選択することができるまでになったということである。政党内閣が外交を担うような議院内閣制ではなく、外交が衆議院における採決に直接影響を受けることもなくても(大日本帝国憲法下には条約を承認する権限がなかった)、外交問題が、政権を担い得る主要政党間の(当時はまだ、政権を担い得る自由党系と、その場合最大野党となる改進党系の)、現実的な対立軸となり得るようになったのである。財政や外交における、矛盾しない差異が2大政党の間に見られることは、2大民党制(『補論』参照)を脱して、有権者に明確に異なる選択肢を提示することができる政党制へと、移行するために重要であった(あくまでも、この当時について言えることであり、政党内閣が異例でなくなることも必要であったし、差異が極端になる危険性もあった)。