日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
維新の会の最大の問題点

維新の会の最大の問題点

筆者は維新の会を日本に必要な政党だと考えている。ただし、自民党を利することがない限りにおいてである。現実には、維新の会は大阪での政策実現のために、優位政党である自民党の力を必要とする。日本がまだまだ中央集権だからだ。それを変えることができるのは国会だが、その多数派は、今後もずっと自民党であると見られている。民主党系への政権交代が起こり、その政権が長続きしそうな状況にでもならない限り、維新の会にとっては、自民党にぶら下がっていた方が得なことが多い。公明党も同じだ(公明党は自民党に政教分離に関して攻撃されたこともあり、自民党を敵に回すことを恐れる)。

それではしかし、維新が望む地方分権を含む、大改革は難しい。と言いたいが、維新の会と民主党系の連立政権が誕生したとしても(両党が協力し、共産党とのすみ分け程度の協力も実現すれば、政権交代の可能性はぐんと高まる)、維新の目指す改革が順調に実現する可能性は低いと想像する。民主党系は、基本的には都構想に反対している。それは大阪市を含む地方公務員の労働組合を支持基盤としているからでもある。特に市役所がなくなって、区役所職員になることを「降格」と捉える市役所職員は、少なくないと想像する。だが筆者は、感情的な面も小さくないと見ており、双方が努力すれば何とかなると、思えてならない)。

なるべく多くが結集しなければ政権交代がより難しい野党よりも、万年与党の自民党は、維新の会を軽視することができる。また左派野党、特に民主党系だけを維新の会と比べた場合、議席数の差は小さくないが、自民党と維新の会との差に比べれば、小さく見える。最近の集票力を見ればなおさらである。だから維新の会は、自民と組む時には特に、自らの人気が頼りとなる。

今の時代、人気があることは影響力の拡大に直結する。逆に言えば、人気がなくなった時には、特に相手が自民党であった場合には、簡単に捨てられる。かつて、自民党と連立を組んで改革を強く求めた小沢自由党(当時は維新と同じ、新自由主義的政党であった)は、一定の人気がありながら自民党に捨てられた(※)。それだけではなく、その際に所属議員の半分以上を切り崩され、自民党の衛星政党と言えるようなものをつくられた。二階自民党幹事長も属していた、保守党である。小沢一郎という根強い人気はあった党首を捨てて、不人気の森内閣にしがみついた保守党は、ほとんど支持されず、間もなく迎えた総選挙(2000年)では、自公両党と共に議席を大きく減らした。しかし選挙前が巨大であったから、まだ自公保で過半数をしっかりと上回っていた。このこともあり、公保両党は引き続き自民党の側にいたいと考えた。なお、選挙前に巨大であったというのは、自民党が、1996年の総選挙でも過半数に届いてはいなかったものの、新進党から多くの入復党があったため、過半数を優に上回っていたことによる。さらに、多くの国民に拒否感を持たれている(その傾向は今より強かったと思われる)公明党も、新進党として1996年の総選挙を戦っていたため、実力以上の議席を得ていたと言える。

議席が少ない政党がある程度軽視されるのは当然であるようにも感じられる。それが、少数民族などのマイノリティを代表する政党ではない日本の場合は、許されることだと思う。しかしそれでも、もてあそぶようなことをしてはいけない。小さな政党とは言っても、その背景には、票を投じた国民がいる。そしてその小さい政党は、大政党と組む限りは、一定の成果を得なければならない(それができないのは、政権も取って、何もできないのと同じである)。

政党の支持というのはそれぞれに、時に上向き、時に下降する。それは、仕事の内容に対する評価には、必ずしもよらない。目立っているか(良く報道されるか)、そうでないかによるところも大きい。だから議席数、支持率、得票率ばかりで政党を評価するのも、問題ないとは言えない。

自民党の連立相手は自民党よりも小さいから、しばしば埋没する。それを避けるためには、極端に言えば、必要のない時にさえ騒いでいないといけない。野党にも似たところはあるが、与党というのは基本的には政権を支持する立場であるから、野党以上に難しいところがある。

かつての小沢の自由党も、そのような苦難に直面していた。何かを実現させても、それは「自民党中心の政権」の成果と見られる。つまり、政治にある程度詳しい人、特に興味がある人以外にとっては、自民党の手柄のように見える。そうであれば、連立相手はより目立つ形で、自民党をせっつくしかない。あるいは「手柄の横取り」についてはあきらめ、そのかわり自民党に選挙協力をしてもらうしかない。自由党の小沢は、この双方を試していたと言える(しかも自民党との合流まで模索していたようだ。合流してから再度分裂させ、政権交代を定着させる狙いもあったと言われている)。しかしそれでは、自民党はもちろん、国民にも結局はうんざりされてしまうことになる。それは、政局ばかりの報道も含めて、理不尽なことであり、自民党以外の政党は本当に、どう振る舞うのか、難しい判断を強いられ続けている。

一方自民党は、いつでも優位政党である。切れるカードも強力で、しかも多くある。支持率低下も他党と比べて怖くはない。問題が忘れられて、元に戻ることが多いからだ。だから自民党の連立相手は、埋没するか疲弊する。自民党に寄れば自立できなくなり、離れれば切り崩される。これではそもそも、渡り合うことなどできない。使い捨てられることが前提だと言っても、過言ではない。それは、連立与党全体で候補者予備選挙をやるなどしても、同じことだろう。

自由党のケースと維新のケースが異なるのは、このような党を連立与党内に置いておくのではなくて、野に放しておいたほうが、野党同士の批判合戦、選挙での共倒れが起こることから、自民党にとって得であり、それが維新の場合、実現しているということだ。自由党(小沢一郎)はそんなに従順ではなかった。自民党に不満があれば、いつでも民主党系の側に寝返る政党であった(実際にそうした)。

今は自由党(1998~2003)の時代のように、そういった政局に対する目が甘くはないということはあっても、維新の会はやはり従順すぎると思う。維新の会が自民党政治を変えようとすればするほど、自民党(の中心部)に与しなければならなくなり、他の野党との共倒れへと進むということが、維新の最大の問題だ。

他にも矛盾がある。癒着構造にどっぷりつかった自民党が、少なくとも小泉内閣くらいの改革路線に転じることがない限り、維新は利用されて終わる。だが、自民党がそのような改革路線に転じるには、小泉内閣の誕生時がそうであったように、まずは不人気、不振に苦しまなければならない。優位政党の地位を失うという恐れが生じなければならないのだ。しかし維新が自民党に協力している限り、自民党がそこまで苦しい状況に陥るということは考えにくい。維新が表面上は野党であり続ければ、非自民陣営のほうが、共倒れ等によるダメージを受けるからだ。自民党にとっては、これが最も助かるわけである。改革する姿勢も少しばかり見せておけば、一定の改革支持の票も、自民党にも入るだろう。

このことを考えると、維新の会はやはり、その良し悪しは別としても、非自民の大同団結に加わって、自民党を弱らせてから、自民党と組むしかないはずだ。

 

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