日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
スペイン

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※特に、立石博高・若松隆『概説スペイン史』(有斐閣、1987年)を参照した。

1812年に立憲君主制となり、政権を得た自由主義者が漸進的に自由化を進めたが、これに飽き足らない、より進歩的な勢力が分離し、政権を得た。一方で、新たな金納による税負担に不満を持つ農民層の支持も得た、絶対王政を志向する国王派のゲリラ活動が続いた。列強諸国の干渉を受けて絶対王政が復活したが、国王は穏健な自由主義者達と協力するようになった。その背景には王位継承問題があった。自由主義者の中でも、穏健派は選挙権の拡大に反対であり、進歩派は賛成であった。普通選挙を求める民主派、王制廃止を唱える共和主義者も力をつけていった。再び政権を得た穏健派は憲法を改め、国王の調停権と、参政権に関する制限を強めた。穏健派の左派と、同派と妥協した進歩派の右派は、自由主義連合を結成した。その後、自由主義連合の支持も得た進歩派政権が自由化を進めたが、自由主義連合と対立し、自由主義連合に政権が移った。同党と穏健派の政権が交互に誕生し、穏健派による自由化の後退が見られた。進歩派は民主派と組んでこれに対抗、自由主義連合も加わり、クーデタによって自由主義連合首班の臨時政府が誕生、カトリックを国教としつつ、信教の自由を認めた憲法が1869年に発布された。自由主義連合と進歩派は協力して過半数を大きく上回る議席を得た。しかしクーデタの中心人物であった将軍が殺害されると、進歩派は穏健派と急進民主派に分裂した。その穏健派と自由主義連合は立憲派を形成し、優位に立った。それよりかなり少ない議席数であったが、連邦派(非中央集権)・民主派・共和派、そして急進民主派が続いた。立憲派よりも右に位置する保守派や教権派は少数であり、君主制を支持する民主派は急進民主派に付いた。政権を得た急進民主派は1872年8月の総選挙で大勝し、立憲派は小勢力に転落した。翌73年、国王が退位して第1共和制が成立した。同年の総選挙では連邦派・民主派・共和派が圧勝し、他は壊滅に近い状態となった。しかしクーデタによって、1874年にも第1共和政が崩壊、再び立憲君主制となった。

第1共和政においては小さな勢力であった保守派や穏健派(進歩派のうちの穏健派ではなく、従来の穏健派)の流れを汲む保守党が圧倒的な多数派となり、同党に対抗して旧自由主義連合、一部の急進派、民主派が合同党を結成した。合同党からは一部が離党したものの、再統一が実現して自由党が結成され、政権交代のある、2大政党制に近い体制となった。多くの小政党はあったが、保守派、自由派、それより少ない急進派、右翼(王党派、カトリック系)、地域政党(自治を求めるものなど)にグループ分けがされているような状態であった。急進派は、連邦的共和制、土地改革、初等教育におけるカトリック教育の禁止等を唱え、2大政党に対抗しようとした。2大政党は、自治を求めるカタルーニャの地域政党、改革党(共和派系の社会労働党と連携していた)の主張を一部取り入れたり、閣僚のポストを割り振ったりして、それらを体制に組み込んだ。この間、合同党の離党者、自由党の離党者、保守党の離党者が首相を出したことがある。大まかにはそれらも保守派、自由派として母体とまとめて捉えられるが、2大政党の統一性は決して高かったわけではなかった。自由党の場合は保守党と違い、離党者が結成した自由民主党の方が強くなった。保守派と自由派の間で政権交代が定着したが、それは双方の競争というよりも、談合(官職や利権を分け合い、政権をたらい回しする)という面が大きかった。この前後も含め、地域の有力者を介した利益誘導政治の傾向が大きかった。

その後クーデタによって軍事政権が誕生したものの、反対運動によって幕を下ろし、1931年、第2共和制へ移行した。この共和制はしかし、相容れない左右の2極構造の中で停滞した。その中でも、与党側が分裂状態となり、野党が政権奪取(奪還)のためにまとまって、総選挙で勝利する。しかし与党になると分裂状態に陥るという事が繰り返された。左翼系を含む共和主義者の大連合政権が迎えた第2共和制の最初の総選挙(1931年)では、共和派・急進派系の右派(急進党や自由党系)、共和派・急進派系の左派、左翼系(社会主義政党等)が並び、右翼系も一定の議席を得た。総選挙前に首相を出していた共和派・急進派系の右派が連立を離脱し、代わって首相を出した、共和派・急進派系の左派と、左翼系による政権となった。だが共和主義者と社会主義者の、与党内での対立が収まらなかった。次の総選挙では右翼系が第1勢力に、共和派の右派が第2勢力となり、左翼系は大敗、共和派の左派は小勢力に転落した。そして、かつての保守党の流れも加わっているカトリック系右翼に次ぐ、第2党となった急進党の政権が成立した。カトリック系右翼の閣外協力、政権の反動的政策に反発した左派は団結した。このため1936年の総選挙では、左翼系や共和派の左派による人民戦線が過半数を大きく上回り、右翼系が議席を減らした。共和派の右派は惨敗、急進党も自由党系も壊滅に近い状態となった。人民戦線による政権は成立したが、第1党であった社会労働党は閣外協力にとどまった。右翼による反乱で内戦になると、左翼系なども共和主義左派の政権を支え、社会労働党は首相を出したが、政府(人民戦線側)は破れ、軍人であり右翼政党ファランヘ党(王党派等他の右翼政党を吸収した)を率いたフランコによる独裁となった。スペインでは何度も内乱が起こり、地域間、階級間、宗教と世俗の間で遠心力が働く中、政権が安定することは結局、ほとんどなかった。特に共和政には2回とも短期間で幕が下りた。なお、ここまで急進派、共和派の諸政党には度々再編が起こっているが、省略した。

独裁者フランコの死後、民主化が進められ、民主化後初の総選挙では、スアレス首相(フランコ体制の改革派)が率いた民主中道連合が過半数まで約10議席に迫った。これはキリスト教民主主義(保守政党)から社会民主主義まで、多くの政党の連合体であった。これに続いたのは、社会労働党(社会主義政党)であった。他に共産党、国民連合(フランコ体制の流れをくむ右翼的政党)、バスク民族主義党も、一定の議席を得た。1979年に新憲法が公布され、総選挙が行われた。国民連合が議席を減らしたが、勢力分野に大きな変化はなかった。民主中道連合は内部対立に揺れ、スアレスが社会民主党系と共に離脱し、社会民主中道党を結成した。1981年の総選挙では、社会民主主義政党へと歩み始めていた社会労働党が過半数を大きく上回った。そのおよそ半分の議席を、国民連合が得た。民主中道連合は10議席あまり(定数はそれまでと同じ350)という大惨敗をし、社会民主中道党もわずかな議席しか得られなかった。民主中道連合は、同連合を離れた自由民主党との連携に失敗した。同連合を構成していた国民民主党が国民連合、民主行動党が社会労働党に付くなどし、民主中道連合は総選挙前から崩壊への道を走っていたが、総選挙後、解散した。こうして社会労働党政権が誕生した。同党に対する挑戦者は、中道右派へと穏健化し、1989年には国民党に改称した国民連合に事実上定まった。そして国民党は1996年、政権交代を実現させた。この2大政党制の他は、共産党を中心とする統一左翼が10議席程度獲得する力があり、独立を志向するものを含めた地域政党その他は、基本的には1ケタの議席で、2大政党の合計は定数350のうち、295~225の間を推移した。

2大政党制とし得るような状況は、2015年の総選挙で一変した。その結果は、国民党123、社会労働党90、ポデモス(私達にはできるの意。緊縮財政に反対する、EU懐疑派の左派新党)42、シウダダノス40(市民達の意。カタルーニャ州を拠点とするものの、その自治権拡大、独立には反対する、親EUの中道右派新党)、他55、計350となり、一気に多党化したと言える。与党国民党の過半数割れ、連立交渉の失敗を受けた2016年の再選挙は、国民党137、社会労働党85、ポデモス連合(他の左派政党との選挙連合)71、シウダダノス32、他25、計350と、あまり変わらない結果となり、社会労働党の内閣信任投票棄権により、かろうじて国民党政権が維持された。2018年、国民党議員の汚職事件の影響により、総選挙を経ずに、政権が社会労働党に移った。2019年4月に行われた総選挙は、社会労働党123、国民党66、シウダダノス57、ポデモス連合42、声(VOX。2013年に国民党の離党者が結成した右翼政党)24、他38、計350となり、過半数を上回る政権の基盤ができず、11月にまた、総選挙が行われた。結果は社会労働党120、国民党89、声52、ポデモス連合35、シウダダノス10、他44、計350となった。与党社会労働党と、2020年に入って連立を組んだポデモス連合を合わせても、なお過半数に達しなかった(ポデモス連合からの入閣者には複数の共産党員がおり、第2共和政以来の入閣となる)。

2023年の総選挙は国民党137,社会労働党121、声33、連合(ポデモス、左派連合―共産党等―、他の環境政党、左翼政党の選挙連合)31、他28,計350となり、左右両ブロックとも過半数に届かずに連立交渉が難航した。結局、第2党に転落した社会労働党と連合の。過半数に届かない連立政権となった。

なお、日本人としては、イラクに派兵していたことで、イスラム過激派による列車爆破テロが起こり、その3日後の総選挙(2004年)で、国民党から、不利だと見られていた、撤兵を唱える社会労働党への政権交代が起こったことが印象的だ。

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