日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
ノルウェー

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スウェーデンからの独立へと進む中、親スウェーデンの面がある保守派と、独立志向の強い自由派の対立があった。自由派は農民と協力し、自由党(左翼党)として政党化されていった。そして1884年に政権を獲得し、保守党と自由党が交互に政権を担うようになった。独立問題で自由党右派の一部が離党し、穏健自由党を結成、1888年の総選挙で穏健自由党が敗北(一つ前の総選挙で30の保守党が51、84の自由党が自由党38、穏健自由党25に)、穏健自由党は保守派の政権を支持し、保守派に吸収された)。選挙権の拡大に伴い自由党が左傾化し、再び離党者が出た。彼らは1909年には自由思考自由党(1930年より自由思考国民党)を結成し、やはり保守党と近い立場をとって、保守党が首相を出す場合には同党と連立を組むようになり、同党に吸収されていった。分裂をしても自由党は、1888年、1909年の総選挙を除き第1党の地位を維持し、過半数を上回ることもあった(1903年の総選挙では、保守党と穏健自由党の合計が、自由党を上回った)。1907年から1908年までは、自由党、自由思考自由党、穏健自由党による連立政権であった。

この間、労働党は議席を伸ばしていった。労働党は、自らと相対的に近い、自由党の側に立っていた。1928年にわずか半月あまり、初めての労働党内閣が存在し、その後自由党、次に農民党、そしてまた自由党の単独政権、つまり保守党が政権から遠ざかり、1935年からは基本的には労働党が政権を担うようになった(戦時中は亡命政府が存在し、戦後間もなくは労働、保守、中央、自由、共産5党の挙国一致内閣)。1965年に労働党が下野し、他党より議席の多い労働党の内閣と、右派ブロック(保守党、自由党、中央党、キリスト教民主党の、全部か多く。小党となった自由党は首相を出しておらず、中央党も1965年から1971年に首相を出したものの、以後は出していない)が交互に政権を担う形になった。ただし、中央党は2001年から2005年の連立には参加せず、その次の、労働党の政権に、左派社会主義党と共に参加している(この政権は珍しく労働党単独ではなく、労働、左派社会主義、中央3党連立であった―労働党政権は第2次世界大戦の頃を除いて単独政権であったが、最新の2013年までの同党の政権が、この連立である―)。2013年から現在までは保守党、進歩党による連立内閣で、2017年からは自由党、2019年にはさらにキリスト教民主党も参加している。

総選挙の結果を見ると、当初は自由党が過半数を上回っていることが多く、保守党は同党に引き離されていることが多かった。穏健自由党の議席数は、それよりもさらに低い水準であった。1903年の総選挙の結果は次の通りで、初めて労働党、労働民主党(穏健自由党に近い労働者の勢力が結成)が議席を得た。保守党47、穏健自由党10、保守党と穏健自由党による連合の、両党以外の当選者5、自由党48、労働党5、労働民主党2、計117。1909年の総選挙は、自由党46、保守党41、自由思考自由党23、労働党11、労働民主党2、計123と、自由思考国民党が一定の議席を得たが、次の1912年の総選挙では、自由党と労働民主党の連合が70+6、保守党と自由思考国民党の連合が20+4、労働党23、計123と、自由思考国民党は議席を減らした。その後、同党は議席を増やすことはあっても、衰退していった。小選挙区2回投票制から比例代表制に変わった、1921年の総選挙の結果は次の通りで、多党化が進んだ。保守党42、自由思考自由党15、自由党37、労働党29、農民党17(一つ前の総選挙で、前身の農業連盟が3議席を得ていた)、社会民主労働党(コミンテルン加盟に否定的な穏健派が労働等を離党して結成-労働党はコミンテルンに加盟したが、短期間で脱した-)8、急進人民党(労働民主党が1921年に改称。衰退し、戦後、穏健自由党に合流)2、計150。1927年の総選挙では、社会民主労働党と合流(再統一)し、共産主義路線を改めた労働党が59、他は保守党29、自由思考国民党2、自由党30、農民党26、共産党3、急進人民党1、計150という結果となった。国王は労働党内閣を成立させたが半月あまりで崩壊した。1933年の総選挙では、一度議席を減らした労働党が69に増え、他は保守党30、自由思考国民党1、自由党24、農民党23、Society Party(経済改革を唱えた)1、キリスト教民主党1、急進人民党1、計150。さらに1945年の総選挙は労働党76、保守党25、自由党20、共産党11、農民党10、キリスト教民主党8、計150となり、労働党が1961年まで過半数を維持することとなる。この選挙では、新興の小党が一定の議席を獲得、労働党以外の主要政党の議席が減り、1党優位の傾向が強まった。次の、1949年の総選挙では、労働党は150中85もの議席を得た。1961年の総選挙は、労働党74、保守党29、キリスト教民主党15、中央党16、自由党14、社会主義人民党2、計150となった。1961年に労働党を離党した最左派が結成した、社会主義人民党の協力によって、過半数をわずかに下回った労働党の政権は維持された。しかし社会主義人民党は、1963年に国営炭鉱の事故に関して政府を追求し、連立を離脱、労働党内閣は倒れ、保守党、中央党、キリスト教民主党、自由党の連立政権となった。しかし、社会主義人民党はこの右派内閣ではなく、労働党についた。このため、約1ヶ月で労働党内閣に戻った。それでも1965年の総選挙では、労働党は150中の68議席に後退し、中央党、保守党、キリスト教民主党、自由党の連立政権が誕生した。労働党優位の多党制から、労働党と右派系の2大勢力が対峙するという面が大きくなった。首相がEC加盟交渉の機密事項を暴露したことで内閣が総辞職、政権を奪還した労働党は、1972年、EC加盟の是非を問う国民投票において反対の結果が出たことで下野し、1973年の総選挙では、一度増やした議席を減らした。同党の議席数は、1990年代までは、60議席台と70議席台の間を上下していた。この1973年の総選挙の結果は、労働党62、保守党29、キリスト教民主党20、中央党21、社会主義者選挙同盟(社会主義人民党や共産党)16、税、義務、公的介入の強力な縮小のためのアンデシュ・ランゲ党(ランゲが結成した右翼ポピュリズム政党。以下ランゲ党)4、自由党2、新人民党(欧州経済共同体への加盟を主張する議員達が、1972年に自由党を離党して結成、議席を失った後に復党)1、計155。社会主義者選挙同盟は左翼社会党となったが、解散を拒んだ共産党は参加しなかった。1985年の総選挙は次の通りの結果となり、自由党が議席を失った。労働党71、保守党50、キリスト教民主党16、中央党12、左翼社会党6、進歩党2、計157。進歩党は、ランゲ党が1977年に改称したもの(離党者が改革党を結成したが1975年に再統一)。1989年の総選挙は次の通りの結果となり、同党が躍進した。労働党63、保守党37、進歩党22、左翼社会党17、キリスト教民主党14、中央党11、フィンマルクの未来のための住民運動(不漁などによる過疎に苦しむフィンマルク県で、減税などによる救済を求めた地域政党だが、その後議席を得ることはなかった)1、計165。1993年の総選挙は次の通りとなり、保守党が第2党に転落、自由党が議席を回復した。労働党67、中央党32、保守党28、左翼社会党13、キリスト教民主党13、進歩党10、自由党1、赤色選挙同盟(毛沢東思想の労働者共産党の選挙用の組織)1、計165。1997年の総選挙では次の通り、進歩党が第2党になった。労働党65、進歩党25、キリスト教民主党25、保守党23、中央党11、左翼社会党9、自由党6、無党派議員(EUに否定的な保守政党で、沿岸党を結成するが2001年に1議席を得るにとどまった)1、計165。2013年の総選挙では保守党が第2党の地位を回復するだけでなく(この間にも一度回復してはいた)、第1党の労働党の不振もあり、同党との差を大きく縮めた。2017年の総選挙では次の通り、その傾向が顕著になった。労働党49、保守党45、進歩党27、中央党19、左翼社会党11、自由党8、キリスト教民主党8、緑の党1、赤(2007年に労働者共産党、赤色選挙連合が結成した政党)1、計169。しかし2021年の総選挙は、労働党48、保守党36、中央党28、進歩党21、左翼社会党13、赤8、緑の党3、キリスト教民主党3、Patient Focus(2021年に結成されたフィンマルク県アルタに病院を求める政党)1、計169となり、労働党と中央党の連立政権が成立した。

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