1.政権交代論

維新の会のカラーと丸山、長谷川「ダブル失言」

さて、苦境を脱した維新の会を襲ったのが丸山、長谷川の失言だ(調べれば分かるし、記憶にも新しいことなので、それらの具体的な内容については基本的に省略する)。これは個々の議員、候補者の問題であるようで、そうではないという面が大きい。と言うのは、維新の会がこのようなタイプの政治家を、利用してきたからだ。

このようなタイプとは、具体的には、目立つことを好む。本音で話す。時にはきつい言葉も使う。自民党に対してよりも、左派の野党に対して批判的である。丸山の例で言えば、北方領土を取り返すには戦争をするしかないというのは、彼にとっての本音であるように見えると同時に、これまで、ソ連の崩壊とロシアの経済的な危機という大チャンスがあっても、北方領土の返還が実現しなかったことを考えれば、反論することが難しい問いかけである。同時に丸山は、戦争で取り返すべきだとも、戦争が良いものだとも、言っていない。そうとう酔っていたということだが、相手を挑発して論破することを好む、ネトウヨのような志向だと見られても、しかたがない発言である(ネットには、右派政治家等が左派政治家等を論破したことを称賛する、そんな動画があふれている)。

しかし丸山が挑発したのは権力者でも、他の政党の議員でもない、戦争(正確には終戦後のソ連の侵略)で北方領土を追われ、いまだ帰ることのできていない、元島民である。一般人であったのだ。この時の丸山のふるまいに関しては他にも問題があったようだが、話がそれないようにしたいと思う。質や、何より実績について大きな差があるが、維新の創設者と言える橋下徹自身もまさに、上に挙げたようなタイプである。ただし決定的な違いがある。それは、橋下には、時に悲壮感がただよっていたということである。筆者は橋下が大阪府知事に就いた当初の、泣いていた姿が忘れられない。政治家が人前で泣くべきではないのかも知れない。しかし悲壮感は大事である。これが2005年の小泉総理にあって、2017年の小池都知事になかったものである。筆者は外から政治を見ているだけで、内情を正確に知っているわけではない。小泉改革には疑問を持っている(政策とは関係ないが、小泉は福田派の系譜の、立派な派閥政治家であったし、選挙区を息子に譲っている)。しかし、本気で現状を変えようとしたら、しばしばその苦しみが、顔に表れるはずである。もちろんこのことは、行動を伴うことが大前提である。その意味でも、小泉、橋下が改革を進めたのに対して、小池の場合は、少なくとも2017年総選挙の時点では、両氏に匹敵する、都政に関する実績、大きな取り組みはなかったに等しい。

丸山と長谷川の言動が失敗であったことは確かだ。しかし両者のスタイルは、橋下維新のスタイルである。それは本音と建前を使い分けて、のらりくらりとしている政治家を古く見せる。そして実際には古いタイプの政治家もいる日本維新の会を、彼らが新しく見せていたのである(足立康史衆院議員も同様である)。そして彼らの左派政党攻撃は、自民党にとってもメリットがあった。民主党系と一応はライバルである自民党自らが批判するよりも、「同じ野党」の維新の会が批判した方が、説得力があるのは当然である。野党間の対立は、自民党をずっとずっと利してきた(だから維新の会が野党であることが、自民党にとって都合がいい。足立康史は五十五年体制も戻ったと嘆くが、それならば社会党~民主党系以外の野党も、やり方を工夫する必要がある)。

丸山と長谷川、特に後者に問題があったことは、維新の会の上層部も以前から、分かっていたはずだ(丸山は飲酒後に一般人とトラブルを起こしていた。長谷川については『政権交代論~内なる病、1党優位~』「感情的なののしり合い」で触れた、透析患者に関する発言など)。それでも重宝したのだ。これらの点で両者のケースは、上西小百合のケースとは異なる。政党が躍進すると、急に増えた議員、候補の中に、問題のある者が含まれる。これにはある程度仕方のない面もある。しかしそのような説明ですませられるケースでは、今回のことはないのだ。大政党になろうとするのなら、政党としてのスタイルについて、日本維新の会は、もう少し考えなければならない。あるいは、のらりくらりの古いスタイルの政党以上に、失言対策を徹底しなければならない。