2.キーワードで考える日本政党史

優位政党の分裂・野党第1党の分裂(④⑥)~自由党系の分裂~

立憲自由党は第2回総選挙までに2回分裂をしたといえる。1度目は総選挙の前後(総選挙前には自由党系は統合されていなかったが)の、大同倶楽部後藤系の離党者による国民自由党の結成、次が土佐派等旧愛国公党系などの離党者による、自由倶楽部の結成である(この時の分裂では、協同倶楽部に参加した離党者等もいた)。立憲自由党は政党としては、他党を引き離していた(といっても政党と呼べるものは他に、立憲改進党くらいしかなかったが)ものの、過半数には届いていいなかった。だが長期的に見ればその系譜は、優位政党と言えるものであることが多かったことから、その分裂を、優位政党の分裂としても、考えてみなければならない。優位政党は権力の座にあるから分裂しにくい。立憲政友会、戦後の自由党、自民党の分裂は、おおかた権力闘争の敗者の離党という面が大きい。この点は、当時野党であった立憲自由党には、当てはまらない(議院内閣制ではなかったから、優位政党であっても野党であるということは、不自然だがあり得た)。優位政党の地位から転落しそうになって、動揺して分裂するケースもあるが、そもそも小規模分裂の例しかなく、当時の立憲自由党はそのような立場にはなかった。次に、立憲自由党の分裂を野党第1党の分裂としてみると、与党第1党(この当時は政党ではない薩長閥)に寄ろうとする勢力と、野党として徹底抗戦しようとする勢力への分裂という定番の分裂に、ほとんどぴったりと、当てはまっているといえる。第1党であろうと野党であれば、非優位政党の宿命からは逃れられないのである。逃れるためには、どちらかの路線で党をまとめ上げるしかない。非優位政党ではこれは非常に困難な者なのだが、第1党であった自由党系には、薩長閥(優位政党に当てはまる面がある)に必要とされる可能性が高い上に、衆議院の選挙で議席を争うライバル政党そのものではなかったから、ある程度の展望を示して党内を抑えることは、比較的容易であったのだ。ただし立憲自由党の分裂には、野党の分裂らしい面も多少ある。それは、合流前の旧党派への分裂という面もある点である。「多少」としたのは、立憲自由党を結成した4派のうち、九州同志会を除く3派は、元々自由党系であったし、九州同志会も、自由党の源流とかかわりがあったからだ。出自の違う政党同士が、優位政党に対抗するために1つになったのとは、類似性はあるが、違う点もある。自由倶楽部の参加者は、政府に切り崩された立憲自由党内の不平派であったといえるが、結局は自由党に復党した。注目されるのは、彼ら土佐派が後にも、自由党の後継政党といえる立憲政友会を離党していることである(第8章参照-⑤-)。その時は自由党の復活を掲げ、この当時も、結局は(立憲)自由党の改革が叶って復党に至った。離党者が母体を正すことを主張することがよくあるが、自由党系の中心であったことを自負する土佐派にそのような考え方があっても、不思議ではない(もちろん派利派略も関係している)。