日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振(⑮他)~分裂後の国民協会の立場~

(準)与党の不振(⑮他)~分裂後の国民協会の立場~

国民協会は山口県に続いて、鹿児島県、福岡県の地盤を失い、熊本国権党主導の色を強めた。さらに同党が加わり得ない、2大民党の連携が実現したことで、第2次松方内閣末期には、時の内閣とのつながりも強められないまま、衆議院における孤立した少数派となった。犠牲を払ってでも回避しようとした、最悪の結果を見たのである。国民協会を脱した議員達は、第2次松方内閣の迷走、衆議院の解散と内閣総辞職で雲散霧消した(玄洋社の平岡浩太郎ら福岡県選出の一部は、中立派の山下倶楽部の結成に活路を見出そうとする―第5章③参照-)。

その後国民協会は、当然ながら、山県系として民党連合に対抗する道を選んだ。進歩党が第2次松方内閣から離脱した当時、その傾向はすでに見えていた。同党の品川会頭が入閣の打診を受けたが、その際国民協会は、即答を求められて党との相談を妨害されたことと共に、星の司法大臣就任案にも反発したのである(1897年12月11日付東京朝日新聞)。前者に関しては、代表者の私的な勢力ではない、政党らしい一面が見られるが、最終的に品川の入閣を固辞したのは、薩摩閥中心の第2次松方内閣が、国民協会が求める、薩長両閥一致の内閣とは言い難かったからであった(佐々木隆「第二次松方内閣の瓦解(下)」150-151頁)。

山県系として、民党から閣僚を採る内閣に積極的には協力しにくい国民協会は、第2次松方内閣に続いて、同じく民党との連携を策した第3次伊藤内閣にも、当然ながら民党連携にも有利にコミットできなかった。特に第3次伊藤内閣には、伊藤系、自由党、国民協会の協力体制から、自由党だけが抜けたという面があった。このため同党は、衆議院で孤立するという犠牲を払ってでも振出しに戻って、薩長閥の超然主義を維持する山県系に連なる勢力として、時の薩長閥の内閣に、山県系に反抗することにならない限り、協力するという道を進まざるを得なかったのである。第2次伊藤内閣が民党から閣僚を採らなかったことは、薩長閥不一致の犠牲者であった同党にとって、せめてもの救いであったといえる。

 

 

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