1.政権交代論

第3極・新民党(③)~露探事件~

第20回帝国議会では、最も左の極と最も右の極が存在するようになったことを示す、事件が起こっている。秋山定輔の議員辞職だ。甲辰倶楽部の小河源一(第9回総選挙前に立憲政友会を離党したと見られる。後に大同倶楽部や中央倶楽部の結成に参加する。つまり山県-桂系に近かった)が、3月24日、秋山にロシアのスパイ(露探)だという疑いがあるとして、調査委員会を設ける緊急動議を出した。『秋山定輔伝』は、「「二六新報」の社会正義、理想主義が、当時世間から極端に忌避されていたイデオロギー的社会主義者達、労働運動家達の許容を含めて親露派という傾向に烙印され」たとしている(第1巻102頁)。そしてこのことから秋山が、露探事件という捏造弾圧の罠にはめられたとしている(第1巻107頁)。この露探事件ついては、山口功二氏の研究(山口功二「ポピュリズムとしての新聞(2)133~141頁)が詳しい。本会議の議事録(『帝国議会衆議院議事速記録』一九51~58頁)も参考にしながら簡単にまとめると、次の通りである。

二六新報は、自らが計画した2回目の労働者大懇親会を、第1次桂内閣に禁止されると、同内閣の打倒を目指した。そのような中で、秋山がロシアのクロポトキン将軍に国内の秘密を漏らしたとする、匿名の葉書が警視庁に届いた。そして秋山が総選挙で再度当選した後、彼がロシアの探偵であるという風説について、調査委員を設けて調査すべきだとする緊急動議を、小河が提出した。これに対して犬養毅(憲政本党)と尾崎行雄(無名倶楽部)は証拠、根拠がないとする調査所を、両院の議員に配布した。委員会では、確実な証拠が発見されなかったとする坂口仁一郎(憲政本党)の案と、ロシアの探偵であるのか言及せず、秋山が自己の利益を図って日本を害し、ロシアを利する行動をしたと認めるという内容の、小河の案を折衷した元田肇の修正案(スパイである証拠はないが、自らの利益のために、日本の利益に反して、ロシアの利益になる行動をしたことは認めるという内容)が多数意見となり、本会議で大岡育造の、二六新報における内閣を弾劾する論説に関して、自ら処決することを望むとする決議案が可決され、秋山は議員辞職をした。なお、会派自由党の楠目玄は、議場で秋山の議員辞職を求めた(『帝国議会衆議院議事速記録』一九53頁)。秋山の辞職は3月29日である。なお、元田も大岡も、吏党系の国民協会出身の立憲政友会議員であった。ただし元田は、河野衆議院議長の内閣弾劾を含む奉答文に対して、立憲政友会の中で唯一明確に批判をしており(第8章補足~離党者が続出した立憲政友会と、対外強硬派の動き~参照)、後の清浦内閣期には、非政党内閣である同内閣を支持して、政友本党の結成に参加する(第14章で見る)。政友本党は、立憲政友会の衆議院議員の半数を上回る離党者達によって結成されたが、この時大岡は立憲政友会に残留していて、元田と大岡には差異がある(ただし1904年10月17日付の原敬の日記には、大岡が第1次桂内閣と内通しているとする者がいたことが記されている―『原敬日記』第2巻続篇193頁―、また1905年2月20日の原の日記には、当時立憲政友会の総務委員であった大岡によって、同党が御用等のようになって、第1次桂内閣と対等でないと、記されている―同223頁―。他の多くの記述からも分かる通り、原は大岡を信頼していなかった)。なお、この当時の原敬の日記(1904年3月29日付)には、小河や楠目玄が決議について、スパイ説にこだわったことが記されている。楠目は当時会派自由党に属していた。

経緯は以上だ。薩長閥(山県-桂系)に連なる吏党系が、新民党に参加した対外強硬派の議員を攻撃したわけである。小河は吏党系に移るとは言っても、総選挙前に立憲政友会を離党したばかりであったと見られる(1903年12月12日付の東京朝日新聞によれば、小河は奉答文の再議について、一事不再議の法理に基づいて、再議に附すべきではないとした立憲政友会代議士総会の決定に反対の立場であった。以後、同紙の選挙に関する報道では中立とされている)。しかし、その背景には奉答文事件があり、奉答文事件そのものが、4極化を促す事件であった(対外硬派が2極化したということは-第8章第3極2大民党制(⑤~⑦)参照-、それらが、2大政党の主流派の外側の右の極と左の極に分かれて位置することを明確にした)。新民党系の議員をかばう改進党系(憲政本党)、適当に折り合いをつけようとする自由党系(立憲政友会。大岡育造はその中でも吏党系の出身という特殊な立場であるが、それでも自由党系らしい動きとし得る)。これは大きく分ければ、吏党系、自由党系、改進党系・新民党となる。自由党系が中央でキャスティングボートを握っていることが現れていることはもちろん、秋山が議員辞職するに至ったことを重視すれば、自由党系・吏党系対、改進党系・新民党という構図も見出せる。それでも吏党系の背後にある山県-桂系と自由党系は、権力を巡って争う宿命を持っていたから、基本的には吏党系と近い中立派は、その中立の色を弱めた。全員が薩長閥寄りであったわけではなかったから、4極化の中で遠心力も受けていたと言える。