1.政権交代論

1列の関係(⑤)~日清戦争後と日露戦争後~

対外強硬派の議員達は、自らの姿勢が、日露開戦、つまり日露戦争勝利につながったのだと、自負することはできた。しかし、だからといって一大勢力を形成することはとてもできなかった。日清戦争後も、日露戦争後も、講和に対する不満はあった(前者は正確には、三国干渉を踏まえた遼東半島返還への反発)。そして日清戦争後は、吏党系の国民協会が脱落したものの、政府に理解を示す自由党系と吏党系(国民協会)を除く勢力は、比較的大きくまとまることができた。自由党系に議席数で肩を並べる進歩党が、立憲改進党を中心に結成されたのである。しかし日露戦争後は、その進歩党の後継政党と言える憲政本党が、存続していながらも、自由党系の立憲政友会の、劣位に立たされていた。一部が新民党に移っていながら、かつてのような、新民党と改進党系-憲政本党-の合流もないという状態であったのだ。ただしそれには、憲政本党に原因があった。憲政本党が、政府に理解を示すようになった立憲政友会と共同歩調をとっていたことで、本来その2大政党を、野党として連結する役割を担おうとしていた同志研究会系(新民党)が、逆に対外強硬派として孤立したからだ。(繰り返しとなるが、日清戦争後に存在していた新民党の立憲革新党は、立憲改進党等と合流した)。これは日清戦争後との大きな違いであるが、薩長閥政府に寄ろうとしない、寄るために主張を曲げるようなことはない、少数の新たな勢力として、むしろ新民党を際立たせた。なお、機会主義的な自由党系(自由党~立憲政友会)と同じく、吏党系の帝国党が、その前身である日清戦争後の国民協会と同様に、日露戦争の講和条約について政府を支持したのは、自然なことであった(日清戦争後の方が揺れていたが、その後の国民協会の分裂によって、純化したという面も大きい―第4章④、⑤、⑩等参照―)。